守屋南さんのm&c

コンサートをする時にはフライヤーを作ったりもするわけですが、私はこれまで基本的にはraregraphの山本州さんに作っていただいており、まずは彼を紹介しないといけないところなのだけれども、これからも彼にはお世話になり続けるので、次回ご紹介するとして、今回の日本での東京と大阪でのリサイタルのフライヤーはm&cの守屋南さんに作っていただきました。

守屋南さんはホームページのプロフィールによると、というかお会いして直接お話しもお聞きしましたが、ニューヨークで彫刻を勉強して、ニューヨークのデザイン会社勤務を経て2001年に帰国、デザイン事務所、CURIOSITY勤務後、ブランドコンサルティング会社、Landor Associates入社、そして2008年独立、m&cを立ち上げられました。

素敵なフライヤー、ありがとうございました!

また題名思い付きません

「友達と楽しくワイン?」と思われた方もいるかもしれない。阪神大震災のときの後悔というのかちょっとした罪の意識を告白し、音楽は生きる意味などと書いたかと思ったら、上海の楽しいコンサートの報告にワインのポストが続きました。ワインのは以前書いていて後に引き延ばしていた自動更新だったのだけれど、公開されてしまったから、今の僕とは無関係だけれどあれはあれでいいことにしました。

「死ぬこと、それは大地震でも脳卒中でも交通事故でも当人とその家族にとっては変わりがないように思える。戦争で死ぬのと通り魔にさされて死ぬのとどちらも死には変わりがない。」と15日(「題名無しです」)に書きましたが、そんな風にふと思ったのは85年の日航機事故の時でした。あの事故では親しくしていた方も若くして亡くなって非常に家族も辛かったのだけれど、誰が亡くなった、ということがテレビでも新聞でも報道されて、その合間にも交通事故でも病気でもたくさんの方が日常的に亡くなっている、ということに違和感を感じました。

世界で起きたどの大災害よりも日本の今回の地震が辛いというのは、日本人だからなのだと思う。

日本人は外国人にどう見られるか、を気にしていて、それはイタリア人に対してはかなり成功している(イタリア人から日本人はいい人達だと思われている)。イタリア人は何か大きなことを決めるときに他の国にどう思われるか、というのはほとんど気にしない。イタリア人は彼らなりに少し(かなり)独特なのだとしても、一般的に西洋人は基本的に外国を気にして内政上の問題を決めてはいないようだ。日本人は日本人間でも人の目を普通に気にするのでそういう感覚で国同士の関係も見るのかもしれない。で、日本人は根っからいい人種、みたいな意見と、日本人の「日本の恥」的な発想を目にすると、「どちらも違う」と言いたくなってしまう。日本人は他人の目を気にしていい人に見せている、と外国人には言いたくなるし、日本人には「イタリア人はたいてい日本人をいい人達だと思ってるから、安心してむしろ思ったように思いっきり振る舞ってほしい」、と言ったところで、日本人の人の目を気にするのは習慣でありほとんど遺伝、日本人であることの一要素だから、自然に振る舞ってこうなんだとも思う。悪いことであるよりはいいことであるのかもしれない。

日本人が気にする「外国人」は「西洋人」のことが圧倒的に多い。コンプレックスがあるのも事実だと思う。

西洋人の言う「いい人」にはかなり「お人好し」的ニュアンスがある。

津波の翌年にモルディブに遊びに行った友人がいて、あんなにたくさんの人が亡くなったところにヴァカンスに行く、ということに違和感を感じたのだけれど、今回の地震の後、経済復帰のために東北に旅行に行ってお金を落とすのがよい、という話を聞き、そうだったのか、と思った。

残された人達、そこで生きて行く人達が今から大変なんだ。

とっても元気な日本人に、「(災害に遭わなかった人は)いつもと変わらないことをやり続けるだけですからね!」と言われた。

コチラカラ以下のプログラムが視聴できます。

ショパン
3つのワルツ Op.64(変ニ長調「子犬のワルツ」、嬰ハ短調、変イ長調)
幻想ポロネーズ Op.61

Frederic Chopin
- Waltz n.6 in D-flat major op.64-1
- Waltz n.7 in C-sharp minor op.64-2
- Waltz n.8 in A-flat major op.64-3
- Polonaise-Fantasie in A-flat major op.61

題名無しです

このブログについて、書くまでもない正直なところをすでに書いたような気もしますがもう一度書きますと、ピアノを弾くという仕事をしている以上、やっぱり人に知られるということ、どういう演奏をするか、というだけでなくどういう人かということについても少しずつ知っていただくことが、必要というのか、例えばベートーヴェンが耳が聞こえなくなったり、バッハが目が見えなくなったりしたことが、音楽そのものの素晴らしさだけではなく、入り口としての情報となっていることも事実なので、端的に言うとそういう意味合いのものです。特に書くことがあって始まったわけではなく、書くために何か努力ということもなく、書くための努力をして書くのではなく自然に書きたい、とも思い、自然に書くものもなく、ミラノということで住んでいる視点で街を紹介してみるにしても今時ネット上には情報があふれていて、食べに行っても恥ずかしくってブログのために一枚写真を、とか言えないし、料理をしても写真を撮る前に食べてしまう、コンサートの報告など反省ばかりで書けず、ハイフェッツが自伝を書くのを勧められたときに、「ヴァイオリンを弾いた」としか書くことがない、と言ったとか言わなかったとか、僕もどちらかというとそういう種類の人間で、いろいろ日常面白いことも起きてはいますが書くほどのことでもなく、カメラを持ち歩いて何かの折りに写真を撮って貼付けて一文したためるという芸も出来ず、でも、こんなことではいけないと、今月からなんでもいいから2日おきには更新するぞ、と鼻息荒くしていたところ、地震が起きました。

こんな状況では尚更書くことなんてないのです。こんなときにこんなクダラナイ文章を読む人の気が知れない、とは読んでいただいている「あなた」にちょっと失礼でした(笑い)。

特に愛国心があるというわけでもなく思っていましたが、日本人であるという思いは特に外国に住んで長いと自然と強くなっても来るようで、日本への思い入れは人一倍深いのです。劇場でイタリア人がナブッコのVa pensieroを歌って涙したりするのを見るとそんな歌のないのが悔しく、何か起きたらみんなで教会で神様に祈っているのを見るとそんな神様のいない日本が寂しく、本当に日本人は素晴らしくマナーがよくってあんな地震でもパニックにもならず、と言われても、お人好しの日本人、世界で唯一原爆を落とされて原子力の怖さを一番知っているのに、その上世界有数の地震大国(津波は世界中で日本語で呼ばれている)なのに、こんなにたくさん原子力発電所を作ってしまったことにむしろ腹立たしく思うのです。

ほらやっぱりね、と人が何か間違えたときに言うのは本当によくないと思います。すでに事故が起きてから、何年も前から警鐘が鳴らされていただろう、と言うのは、今は止めていただきたい。今は命がけで働いている人々を心の中で応援するしかない。結局は政治の話になるとしたら、国民は次の選挙で誰に投票するか(或は立候補するか)で真意を示すしかない。

音楽は、生きる意味を与えることが出来るものだと思っています。突然大袈裟でした。でも何のために生きるか、中学生みたいな問いですが、結構難しいですね。単純に、食べたり、寝たり、健康とか、仕事、お金、これらは何かのためにすることのように思えます。幸せのため、でも「幸せ」は振り返ってみて感じるものでしょう。この辺りの話は浅く深く、単純で複雑なので一概には言えないし、詳しくも説明できません。ともかく、音楽は、僕にとって、聴いているときに(弾いているときに)価値のある時間を過ごすことの出来るものだと思います。と、言い換えるともう生きている意味、とはかけ離れてしまう。音楽にもよる。どんな音楽でも当てはまる話ではない。ただの仕事人間なのかもしれない。それを自分の仕事だけは違う、と言い切って説明できずシドロモドロ、みっともなくなってきた。

こんな大災害のときに音楽の出来ること。チャリティーコンサートもいいけれど、本来音楽は、聴こえてくるもののように思います。控えめな押し付けがましくないものです。自然にそこに聴こえること、そこで耳を傾けること。美しい音、不思議な音、そのリズム、旋律、響き、流れる時間と満たされる空間。それが生きる意味を与えるものならば、辛い時、悲しいときにこそ価値を発揮するのかもしれない。

死ぬこと、それは大地震でも脳卒中でも交通事故でも当人とその家族にとっては変わりがないように思える。戦争で死ぬのと通り魔にさされて死ぬのとどちらも死には変わりがない。死について、この程度のことしか分らない。結局まだ本気で考えたことがないということなのだと思う。阪神大震災、今回の地震、生は死と表裏一体、いつ死んでもおかしくない。

東北地方太平洋沖で発生した地震

この度の地震、まだまだ被害状況が把握できていない、本当に大変な状況で、適切な言葉も見当たらず、ミラノから状況をインターネット上で追っています。余震、津波、そして原発、心配が続きます。

実家が西宮市で阪神大震災を両親、友人等が体験し、でも東京にいた僕は実感の湧かないまま、その瞬間何も出来ず何もしなかったこと、そのとき何にも分らなかった自分に、後になってから、後悔、と言うのでもなく、なにか非常に苦い、自分はこういう人間なのか、とでもいったある種の侮蔑というのか、そんな感情を、今でも持っています。

再び大きな地震が日本で起きているのを見、自分が日本にすらいなくって、何も出来ない、無力感というのか、ただ心配することしか出来ません。

まだ見つかっていない方が早く見つかることを、今後長く後を引くのであろう様々な辛い出来事が少しでも少なくすむように、心から祈っています。