ドビュッシーのメヌエット(ベルガマスク組曲)のゲラ。

前回はドビュッシーの映像第1集の「水の反映」の自筆譜と初版と原典版を見比べてみましたが、今回は、同じくドビュッシーのベルガマスク組曲の第2曲「メヌエット」の校正刷り、所謂ゲラをご紹介します。
これは出版される前の校正刷りにドビュッシーが鉛筆で訂正を書き込んだもので、パリの国立美術館にあります。(Paris, Bibliotèque nationale de France, Départment de la Musique, Rés. Vma 286)

1ページ目は第72小節(下の楽譜の1段目の最後の小節)から繋がっています。

69小節から76小節(初版:E. Fromont, 1905)

構成の段階で削除されたフレーズがあったこと、それを今弾いてみるとなんだか陳腐な感じがするのですが、こうである可能性もあった、というのは新鮮な発見で、古典が生まれた瞬間を追体験するような印象を受けました。
そして、下の楽譜の1段目から2段目に移るところの唐突な転調は、突然の舞台転換、舞台というよりはむしろ映像におけるカットを思わせるものなのですが、これが実際に6小節カットされていたのですね。驚きと納得、といった感じを受けました。下の音源の03:00のあたりです。

面白いですね!

ところで、ウィーン原典版には下のような箇所があります。

ここはウィーン原典版以外の楽譜では以下のようになっています。

86小節から88小節(初版:E. Fromont, 1905)

ウィーン原典版の注釈には「編集者の考えを支持する情報源はないけれども87小節のソ♯はソ♮だと思う」とあります。このような大胆な変更は、Critical editionなどであればいいのですが、原典版と銘打っている楽譜では少し相容れないように思います。ドイツ語圏の人にとっては、「Urtext」というのは日本語の「原典版」という言葉よりももう少し柔らかいイメージなのかもしれませんね。

ドビュッシー「水の反映」自筆譜と初版と原典版と

ミラノはますます暑く、とても夏らしくなって来ました。

ドビュッシーの映像第1集の第1曲「水の反映」の、自筆譜と初版にあるちょっとしたリズムの違いをここで書いておこうかと思いました。
そもそもこの曲の、フランス語の原題は「Reflets dans l’eau」といって、dans l’eauは英語だとin the water、水の中の、ということで、水面の反射ではなく、水の中で光の反射する様子が描かれているのですね。

では、ここで注目するのは、第33小節。

1:45あたりからです。

水の反映 第33小節 Durand初版

水の反映 第33小節 自筆譜

この左手バスのリズムがなぜか自筆譜では付点と十六分音符の旗が消されて2つの八分音符になっています。要するに前の小節と同じリズムではなく、次の小節と同じリズムであるということです。これは、決定的な違いであって、なぜ初版に反映されなかったのかは分らないし、ドビュッシー自身によって訂正されたのがどうかは定かではありませんが、たとえ他人によって訂正されたのであったとしても、自筆譜の訂正後のもののほうがずっと説得力があると私は思います。

初版の版権が切れてから出た所謂「原典版」も見てみましょう。

水の反映 第33小節 ヘンレ版 1989年

水の反映 第33小節 ベーレンライター版 2012年

この曲に関してはどちらの原典版も自筆譜と初版を基にしていると書いてありますが、ヘンレ版にはこの自筆譜に見られるリズムの訂正は反映されておらず、巻末の注釈でも触れられていません。ベーレンライターは自筆譜の通りになっており、注釈にも訂正されており、この訂正はドビュッシーがしたに違いない、と書かれています。

で、何が言いたいのか、と言うとですね、こういうふうに楽譜をそれぞれ読み比べるのも演奏をするという行為への過程のひとつでして、このような小さな部分の自筆譜と初版と原典版のそれぞれの違いを見付け、正しいか間違っているかという結論はなくて、自分の考えでどのように弾くかを選択する、というのもまた楽しいことなのです。

- 自筆譜と初版はペトルッチ・ミュージック・ライブラリーでダウンロード出来ます。
https://imslp.org/wiki/Images%2C_1ere_s%C3%A9rie_(Debussy%2C_Claude)

頭が想像した音を鳴らす?

前回の投稿(「私は自分の仕事が批評され、自分はどの点で間違っていたり正しかったりしたのかを知ることを強く必要としています。」)は、批評するんだったら具体的にね、というお話で、極当たり前のことです。好意的でない批評を書いた著名な評論家との対談でのゴダールの発言であることと、少し挑発的な言葉選びなどが、月並みなメッセージをより明確に伝えていると思いましたので、引用してみました。

今日は以前書いた、

「頭が想像した音をできるだけ正確に速くストレスなしに鳴らすには余分な動きをしてはだめなんです。」の「頭が想像した音」がまた難しい。「頭が想像した音」を弾くだけではないので。もう少し考えます。(ピアノの弾き方「小指の空手チョップについて」

という文章について、これは去年の7月に書いたことになっているので、1年以上を経て、ようやく少し考えたことを書いてみます。

ピアノの練習をするのは弾けるようになるためなのだけれど、ということは、どのように弾けるようになるために練習をするか、が大切なので、どのように弾けばいいかを考えることが勉強の始まりになるかと思います。昔ホロヴィッツがあるインタビューで「あなたは非常に若い時にすでに完成の域に達していたといわれていますね」というインタビュアーの質問に対して「暗譜で弾いていたということですか?」と聞き返したのを見て(朧げな記憶をたどっています)、質問もおかしいけれどその質問に質問で答えるおかしな会話だと思いましたが、これは実は深い話なのではないか、彼は暗譜で弾ければそれ以上は自由に弾けばいいと考えているから「完成の域」とは暗譜しているということですか?と聞き返したのかもしれない、と思い直しました。どのように弾かれたら完成と言えるのか、どのように弾けばいいか、というのは僕にも明解ではないよ、と言いたかったのかもしれない、音楽家のインタビューというのは全く曖昧で、常套句と宣伝に満ちていて虚栄心ばかり見えて、考えというのかその音楽家の本当に面白いところが引き出されることは稀で、「芸術家よ語るなかれ」(ゲーテ)と言いたくなるのも分るのは音楽家のブログと同じですが、このような些細なところで本音が垣間見られたりもするものかもしれないと思いました。

どのように弾けばいいかは先生に教えてもらえばいいことですが、先生というのは時には生徒がどのように弾きたいか、を尊重したりもするので、その時には自分で考えないといけません。また、どのように弾けばいいかいつも詳しく教えてくれる大好きな先生なのだけれど、ここの部分についてはどうも先生の言うように弾くよりも自分の思っている方が好きだ、ということもありえます。まずは自分で楽譜に書かれている情報を読み取る努力をする必要があります。そのためには和声であったり対位法であったりたくさん勉強しないといけません。音楽の歴史や作曲家の生涯、作曲の経緯などを知る必要もあるのかもしれません。生家に行ってみたりお墓参りをしてみたりする人までいます。この夏は南仏でぶらぶらしていましたが、天気が悪く海水浴の出来ない日に、知人がサン=ポール=ド=ヴァンスにシャガールのお墓を見に行こうと楽しそうに言い始め、悪趣味だなあ、と思いました。レストランを予約したということだったので結局お付き合いしましたが。ミラノに帰って来たら王宮でシャガール展をしていて少し縁を感じました。

Chagall with one of his paintings, Saint-Paul-de-Vence, France, c. 1952.

その作曲家の他の曲を聴いたり、有名なピアニストがその曲を弾いているのを聴いてみる、というのも一つの方法です。今ではYoutubeでいくらでも見られるし聴けますね。NAXOSでもたくさん聴けます。でもインターネットで演奏を参照するのは要注意です。たとえば、Youtubeでベートーヴェンの悲愴を見てみると、ハイドシェク、ツィメルマン、フレディ・ケンプなどがたくさん見られていて有名であるということになりますが、この人たちの悲愴が、それがいい演奏であるかどうかは別にして、演奏の歴史の上でのスタンダードではありません。その他にもたくさん出てくる演奏の中で、どれを聴くべきか、を知るのはすでにかなりの知識を持っている人でないと無理です。好きな演奏を聴くのは勿論いいのですが、ある種の模範的とされる演奏があったとして、それが嫌いでも、なぜその演奏が模範的であるとされているのかを知るのは、そのように弾くか弾かないかは別にして、必要なことだと思います。インターネットでは、よく見られるものや、権利の切れたものや、見せようとして載せられているもの(ある意味全ての演奏は聴かせようとして演奏されているのですが)などが、演奏の価値(難しい)に関わらずいろいろな理由でよく見えるところにおいてあったりもするので、その日の一番重大な出来事が載る新聞の一面記事のように(それも買わせようと思って書かれていますが)その曲の最も重要な演奏が一番目に付く所にあるとは限りません。まったく当たり前のことではありますが、ピアノを勉強している人(がこのブログを読むかどうかはまた少し疑問です)がネットリテラシー(なんだか使うのが少し恥ずかしい言葉ですね)が高いとは限らないので(私自身も限りなく低いですが)書いておきました。

で、話の本筋に戻しますと、聴いて勉強をする、というのは、聴いて影響を受ける、ということです。ピアノの練習をは体操ではなく(でもありますが)、音を聴き、音を探す作業なので、自分の演奏の影響も受けます。弾きながら聴きながら影響を受けながら演奏をし、練習をし、その中で、どのように演奏されるべきか、を考え、どのように演奏したいと感じるか、そのすべてが同時に(厳密には同時ではなくて少しずつずれていたりしますが)演奏に表現される、と私は考えていますので、「頭が想像した音をできるだけ正確に速くストレスなしに鳴らす」というのは、もちろん話としてはこちらの方が正しくわかりやすいのかもしれないけれども、そのままそれがピアノの弾き方であるというのには抵抗があります。(「頭『で』想像した音を鳴らす」にしないと「想像した音を頭が鳴らす」という具合に意味を取り違える恐れがあるというのは余談ですね)

という風に思っています。

( 続く)

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リサイタル「悲壮美そして情熱の調べ」

プログラム
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
・ピアノソナタ第8番 ハ短調 Op. 13「悲愴」
フランツ・リスト作曲
フランツ・リスト作曲
・超絶技巧練習曲第10番 ヘ短調
・超絶技巧練習曲第11番 変ニ長調「夕べの調べ」
・超絶技巧練習曲第12番 変ロ短調「雪あらし」
フレデリック・フランソワ・ショパン作曲
・マズルカ ホ短調 Op. 41-2
・マズルカ 嬰ハ短調 Op. 63-3
・舟歌 嬰ヘ長調 Op. 60
モーリス・ラヴェル作曲
・夜のガスパール( オンディーヌ – 絞首台 – スカルボ)

2014/11/27(木)大阪 ザ・フェニックスホール
東京 サントリーホールブルーローズ(小ホール)

詳しくはコンサートページをご覧下さい。

2014/12/7(日)15:00
大垣市スイトピアセンター音楽堂で宮松重紀指揮大垣市室内管弦楽団とブラームスのビアノ協奏曲第2番を演奏します。

ピアノの弾き方「小指の空手チョップについて」

自分でピアノの弾き方を書こうとするとかしこまってしまって書けなくなりそうなので、ピアノの弾き方について書いてある面白いブログにコメントをすることで、僕のピアノの弾き方について考えていることも垣間見られる(垣間見せられる)のではないか、という試みです。

「小指は手のひらを開けて垂直に降ろします。つまり、空手チョップのように。」(ピアノの弾き方④鍵盤

これはこのブログの中の最も極端な文章のひとつかと思われますが、では、そのように弾いている例を。下のビデオの7分のあたり、バッハのピアノ協奏曲第1番の冒頭のレミファ、ミ、レ、ラ、レーのレーはまさに空手チョップです。

このブログの著者は「私はリヒテルが好きなんです」と仰っていたことがあり、空手チョップをするから好きなのではないのだろうけれど、リヒテルの空手チョップはシューベルトでもプロコフィエフでも至る所で見られます。

小指と言えば、下のビデオの1分32秒くらいから左手の小指を鍵盤の手前の木のところに支えてるように置いているのが印象的です。僕は左の親指を同じように使うことがありますが、小指をこのようにするのは彼しか見たことがありません。親指をそのように使っている人も見たことがないけれど。

卵を持った時のようにした状態の指というのは、小指に関しては特に力のかかり方が自然でなく、指が少し内側に湾曲してしまっている方なども見かけます。いろいろな弾き方のピアニストがいるので、一概には言えませんが、手にあまり負担のない弾き方がいいですね。

ピアノの弾き方④鍵盤では小指チョップのあと、「ピアノの鍵盤は上級者になってもできるだけ指を動かさずに弾くのが理想です。」という話になるのですが、これはどうなのでしょう、「できるだけ指だけを動かして弾くのが理想です。」と言う人もいそうですね。

次の文章、「頭が想像した音をできるだけ正確に速くストレスなしに鳴らすには余分な動きをしてはだめなんです。」の「頭が想像した音」がまた難しい。「頭が想像した音」を弾くだけではないので。もう少し考えます。