モラヴィア Alberto Moravia

先日近所の本屋さんでプルーストの “L’indifférent” を偶然発見しました。

Marcel Proust

Marcel Proust

伊語で L’indifferente、邦訳があるのか、恐らく全集にでも入っているのだろうと思いますが、邦題は分かりません。「無関心な人」という意味です。本文は16ページに満たない超短編ですが、フランス語とイタリア語が左右のページに印刷されて、長い序文とあとがきが付けられて78ページの文庫本です。

アガムベン(Giorgio Agamben)さんの序文にデカルトの『情念論』の「驚き」について書かれてあります。(「情念」という言葉はなんだかおどろおどろしいけれど、イタリア語でPASSIONEと言えば情熱的で、でもカタカナでパッシオーネと書くとshiの発音が入っているみたいで少し変です。2007年7月1日 Siamo LidicoRi参照)

René Descartes

René Descartes

「驚き」は情念の中で最も根源的なものであり、また一番純粋なものであるとデカルトが書いたのは有名です。「驚き」、フランス語では admiration、これはイタリア語に直訳するとammirazione、「賞賛、感嘆」といった意味合いですが、ここではデカルトの意図した「驚愕」の意を汲み、meraviglia と訳されています。世界の七不思議 le 7 meraviglie del mondo や不思議の国のアリス Alice nel paese delle meraviglie のようなニュアンスがあります。

その「驚き」はプラトンやアリストテレスによる哲学の原点でもあり、僕に言わせるとこれはまた所謂 “芸術”(この言葉はもう嫌いになったのだけれどまた使ってしまった。。2009年11月11日「矜持」参照)の “作用” そのものなのではないか、とも言えるやもしれん、とかとも思います。

シドロモドロになったところで(「驚き」の純粋さを強調して所謂 “芸術” から倫理を排除してみたいと思ったけれど上手く説明できそうにないのでやめました)アガムベンさんに戻ります。序文の中に『デカルトとくればスピノザ。デカルトの「驚き」の反対は「無関心 l’indifferenza」であるのに対して、スピノザは「驚き」の対極に「軽蔑 il disprezzo」を置きました。(超意訳)』とあるのを読み、モラヴィアを思い出しました。

Alberto Moravia

Alberto Moravia

というのも彼は「軽蔑 “il disprezzo”」と「無関心な人々 “Gli indifferenti”」を書いているからです。不思議な一致ですね。(「軽蔑」は以前紹介したゴダールの映画の原作です。2008年9月1日軽蔑参照)

以前パヴェーゼを紹介した時に(2007年4月21日「パヴェーゼ」参照)、他の作家も紹介したいと思っていましたが3年近くの年月が流れてしまいました。プルーストとデカルトとスピノザのおかげでようやく2人目のイタリア人作家を紹介できました。モラヴィア、ぜひ読んでみてください。

茶の本 THE BOOK OF TEA

岡倉天心

岡倉天心

日本に帰るといつも何冊か文庫本を買います。たいていは滞在中に読んでしまい、買いに行く時間があまりないと同じ本を読みなおしたりします。同じ本を何度も読むのが好きです。
 この夏帰国したときには「茶の本」を読みました。
 いわずと知れた岡倉天心(覚三)の英語で書いた古典です。天心という人がいかに破天荒な人生を送ったか、ずば抜けた知性と強い性格と広い見識を持った人であったか、についてはここに書くには及ばないと思います。
 この本は当時(1906年)の西洋人に茶とその精神を紹介し、それを通して日本の理解を促すべく書かれたものだと思われますが、今となっては日本人にも面白い情報がいろいろ書いてある楽しめる一冊だ、と思ったとしたらそれは僕らの世代の日本人には(あるいは単純に僕には)もう、かつての日本人としての常識が欠けているからかもしれません。
 僕の読んだ岩波文庫版には訳者のはしがきとして弟さんの文章が冒頭にありますが、そのなかで、

情熱の人詩人バイロンに、風貌において性向において大いに類似を示した兄には、云々

という文章があり、性向はともかく風貌は僕だってジョージ・クルーニーに似ていると言いたくなりました。

George Gordon Byron

George Gordon Byron

イタリア人は人の風貌について、目の色(青、緑、グレー、茶、黒など)と髪の色(黒、茶、金など)と髪の質(ストレート、てんねんパーマなど)をまず口にするのを耳にしますが、日本人は目はほとんど全員黒、髪も黒でストレートがほとんどなので、人を見たときにどんな目の色でどんな髪の色でというのは僕は覚えていないことが多く(目の色については西洋人と違って僕らはあまり目を直視して話さないから覚えていないのかもしれない)、それから鼻の形(あまり大きいのは不細工だとされる)とか輪郭とか、細部の見方も何となく違うと思わされることがよくあります。その分彼らは東洋人の顔を見分けるのは得意ではないようにも思います。
 天心とバイロンが大いに類似しているとは流石に弟さん少し言い過ぎましたけど、今のようにテレビもなく日常的に西洋人の顔を見ることのなかった昔の日本人にとっては、外国人の顔を見分けることが今の僕たちよりも不得意であったに違いないと思いました。

旅への誘い

「旅への誘い」という旅行会社の宣伝文句のような使い古された言葉は、ボードレールとデュパルクを想い起こさせるので、嫌いではない。
ボードレールの旅は愛の逃避行、「贅沢と静けさと悦楽」、ああ、悪くはないけれど、それらは旅ではなく、実生活の中にあるとよりよいようにも思う。

旅、とは移動のことであり、移動中こそが旅であって、飛行機、船、電車、車、徒歩などなどが旅の手段である。目的地にたどり着いたとき、旅は終わるだろうか。夜、旅先で寝るとき、ホテル、知人宅、いつもと違うベッド、部屋の匂い、海の音、それらもまた旅の一部であると感じる。目的のある旅だろうか。終わりのある旅なのかどうかも分からなくなる。帰路も旅には違いなく、帰って来たとき、ああ、帰って来た、と思う。どこに?ミラノ。ここもまた旅先であるのかもしれない。そして日本。故郷であって、旅行先である。旅とは生きることなのかもしれない。生きることは移動すること。遊牧民のようである。遊牧民は羊を飼い、羊の乳を飲み、チーズを作る。ぼくだってチーズを食べることがある。ペコリーノは羊のチーズである。話が脱線する。途中下車、といったところか。旅は道連れなどという愚言が頭をよぎる。

ボードレールは旅を歌ったのではなく、生活を旅に例えたのではなかったか。だらだらと駄文を綴ってようやくそんな単純なことに気付いたわけである。

Stendhal…

「イタリアの幸福は瞬間の感動にしたがうことだ」スタンダール(『恋愛論』第2巻第43章)

ああ、スタンダールこそは僕が最も恐れる作家である。

彼は全くの趣味人で、イタリアを愛し、女性を愛し、芸術を愛する文化人、仕事はというとナポレオン派の下等官僚で、ナポレオン派の没落時にはくだらない雑誌に文章を売ってしのいだ。貧乏だけれど贅沢もやめられない、といったところか。本名はアンリ・ベール。スタンダールというペンネームはドイツの小都市からとられた。墓標には「ミラネーゼ」と書かせたという。

この夏僕は海にスタンダールの「ローマ散策」を持って行った。ミラノのある古本屋で5ユーロで買った非常に分厚い本で、友人たちにはあまりに重いので笑われた。

彼はローマをかけずり回り、その美を全身に浴びて、1冊の本に仕上げた。とっても素直にローマが好きらしい。何かが僕のしゃくに障るのだ。言ってしまおうか、彼の「ディレッタンティスム」が僕の嘔吐を誘うのだ。フランス嫌いを公言し、ペンネームはインテリ気取りのドイツ名、ヴァカンスはいつもイタリア、墓標にはミラネーゼ。

ある女性に恋をして、ふられて立ち去るときに一言、「歓喜に酔い、希望に溢れて辞去」。

ああ、まるで自分を見るようで全くもって不愉快である!・・・。