曲全体をまるで一目で見渡すかように聴くこと、または音楽と絵

ミケランジェリがチェリビダッケとのコンチェルトのアンコールでドビュッシーの「ラモー讚」(映像第1巻の2曲目)を弾いているビデオです。

チェリビダッケはミケランジェリについて「彼は彼を愛し理解する人、彼に対して批判的な立場でない人を切に必要としている。私のことを理想的な人物だと思っているらしく、実際に彼にはそういう感情を持っているし、彼の計り知れない孤独を私は恐れている。」とイタリアの全国紙コリエーレのインタビューで話しました。(5 ottobre 1992 – Corriere della Sera

他のインタビューでは「彼(ミケランジェリ)はクライマックスと曲のはじめと終わりに関連を持たせることが出来る唯一の人だ。」とも言っています。以前Youtubeにもありましたが見付からず、このリンクはFacebookのアカウントがないと見られないかもしれません。 http://www.facebook.com/video/video.php?v=1301124047123

この言葉は僕には非常に興味があって、モーツァルトの有名な手紙の言葉を思い出させます。

「ちょうど美しい一幅の絵或は麗しい人でも見る様に心のうちで一目でそれを見渡します。後になれば、むろん次々に順を追って現れるものですが、想像の中ではそういう具合には現れず、まるですべてのものが皆一緒になって聞こえるのです。」

ちなみに、この手紙は小林秀雄も「モオツァルト」に引用していますが、彼はこの前後のところにより惹かれたようで、特にこの部分には言及がありません(苦笑)。

「クライマックスと曲のはじめと終わりに関連を持たせる」には「一目でそれを見渡し」「皆一緒になって聞こえる」のでないといけないのではないかという気がします。

以前ツイッターで「音楽では細部と全体との関係は、絵画彫刻とは全く異なる。楽曲の全体的な印象というのは、記憶力に関わる問題でもある。鑑賞において、鳥瞰図のようなものはなく、あくまでも木々の間を歩くことから森を把握するしかない。」とつぶやいたことがあり、その時にこのような感想?をいただきました。

我々の視線は、ある時は、描かれたある事物ともう一つの事物との対応関係を見ていたり、またある時は画面のなかをリズミカルに動きまわる筆致の動きを追っていたり、ある時は白から緑、緑から黄色、黄色から赤へと微妙なニュアンスで変化してゆく色彩の震動を感じていたりするというような、視線の『動き』として、部分と部分、要素と要素を動きながら繋いでゆく、見るという行為の『持続』によって、この絵を捉えてゆくしかないのだ。」(「音楽と他の芸術の相違をめぐって」

絵もまた音楽のように「動き」の「持続」として捉えるという全くもっともな指摘に恐れ入ったのですが、先のモーツァルトの言葉はその反対に、音楽もまた絵のように「全体を俯瞰(ふかん)する」ことができるということを言っており、そして、そういう視点を持って初めて「クライマックスと曲のはじめと終わりに関連を持たせる」ことが出来るのではないかな、と思いました。

で、まだ何か言い足りない気もするのですが、この話はこれ以上掘り下げると永遠と瞬間の話とか始まって恥ずかしいことになるか、または、ある曲を最初から最後まで歌わなくてもその曲から受けた印象を思い出すことが出来るように実は音楽は誰にでも一瞬のものとして捉えられているじゃん、という陳腐なことになるので終わりです。

再び前ポストと同じコンサートのお知らせです。
11月10日に兵庫県西宮芸術文化センター神戸女学院小ホールにてリサイタルをします。
日 時 2011年11月10日(木)
開 演 19:00  (開 場 18:30)
会 場 芸術文化センター 神戸女学院小ホール
料 金 自由席(一般)3,500円/(吉川隆弘後援会会員)3,000円
お問い合わせ:Ampio(吉川隆弘後援会)TEL 0798-73-3295
program:
ベートーヴェン:ピアノソナタ第7番ニ長調 Op.10-3
プロコフィエフ:ピアノソナタ第6番イ長調 Op.82
ドビュッシー:映像第2集
ショパン:ノクターン第1番変ロ短調 Op.9-1、マズルカ第41番嬰ハ短調 Op.63-3、スケルツォ第2番変ロ短調 Op.31

歌を聴く時に言葉を聞くことと音楽を聴く時に音を聞くこと

また長いこと更新しないでいる間、いろいろと書けることはあったし、ああ、ここでカメラを持っていれば、或は、なんであのとき写真を撮っておかなかったのだろう、というような後悔を何度も繰り返しまして、結局だらだら書きます。

先日ツイッターでイタリア語の発音について質問をいただきました。イタリア語はイタリアに住んでいるので何とか話せますが、特に発音について(だけでなく全般的に)真剣に勉強をしたことはなく、知っている範囲でごく曖昧にお答えさせていただきました。質問は “slentando” は「ズレンタンド」という発音になるのか、というものでしたが、単純に答えるとそうなります、ですが、考えてみると実は複雑でした。そもそも「ズ」には母音はないのでまずカタカナで表記するのが無理ですね。そして日本語の「ズ」の子音の発音はイタリア語では “Z” になりますが、「ズレンタンド」の「ズ」は “S” の濁ったもので、僕の曖昧な知識を恥ずかし気もなく披露しますと(汗)、、舌の先が下の歯茎に触れた状態で舌の真ん中辺りが上あごに触れるような感じで出る音が “S” で、”Z” は舌の先が上だか下だかの歯茎から離れる時に出る音のようです(汗)。濁った “S” は「さ、せ、そ」の発音の時の舌の状態に非常に近く、”Z” は「ツァ、ツェ、ツォ」の発音の時の舌の状態に非常に近いのではないか、と思います(汗)。例えば、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」でツェルリーナ(伊語ではゼルリーナです)が歌うアリア “Batti, batti, o bel Masetto”(バッティ、バッティ、オ ベル マゼット) のマゼットは “Z” で発音されるとなんだか可笑しい、でもそんなことは普通のオペラ好きの日本人の方にはわからないことなのだと思います。歌を聴く時に言葉を聞くこと、がどの程度鑑賞の上で重要なのか、よく分らなくなってしまいました。歌は全般的にごく当たり前な生活がもとにあるものが多く、そこで生活感の全く違う国の人にその生活感のところを分ってもらうのは難しいと思います。「歌」がそうであれば「歌」を書いた作曲家のピアノ曲もまた生活感が漂ってくるのかもしれません。生活、のような下世話なものから切り離されたところに「純粋」な「芸術」の「価値」があるのかもしれません。これは壮大な問題なので本当に気が向いた時にゆっくり考えます。

先日野外でベートーヴェンの悲愴ソナタを弾いた時のこと、弾き始めてすぐ、近所の教会の鐘が鳴り響いてしまいました。が実はそれは僕には聞こえなかった。コンサート後お客さんに「鐘が鳴ったのが残念だった」と言われて初めて鐘が鳴っていたことを知りました。それはつまり弾いている時に「音」を聴いていなかったということになると思えます。ピアノを弾く時、弾く前に既に次に出る音のイメージというものがあり、音楽をするということは指揮者のように「音」に先立って進んで行く必要があります。同時にどのような音が出ているか、というのもまた聴こえていないといけないと思っていましたが、そのあたりはちょっと微妙になって来ました。音楽を聴く時に音を聴くという当たり前のことについて考えさせられてしまいました。

例えば歌を歌う時、歌っている人は自分では自分の声は聞こえないというのは、自分のしゃべっている声が知らない間に何かの拍子で録音されて、それを聞かされた時の違和感を思い出しても容易に想像できます。ピアノの音は弾いている人にも聞こえますから(厳密に言うと客席やマイクの向こうでどう聞こえているかは分りませんが)練習の時には特に非常に集中して聴くことが大切だと思います。

ある音を集中して聞いていると他の音は聞こえないということもあるのでしょうか?

何となく感じたことを書きました。ただ感じたことを何となく書くだけでなく、ここいらでひとつ、先人の文献を引用したり、何かしら科学的な(或は哲学的美学的宗教的道徳的な)論証を取り上げたりすることで、ある種の解決というのか、見解にまで辿り着けるようになると、このブログもまた、少しは読んで面白いものになるのかもしれないな、とも思いますが、また中途半端に終わりです。次こそはここのバールのカフェが旨い!という具合にいきたいのですが、そうでなかったら、過去の中途半端に思い付きで書いた話を掘り下げてもいいのかもしれませんね。

コンサート前に、、

 コンサートに行く。
週末、日曜だったりする。前の日は土曜なのに遅くまで働いた。
夜、家に帰ってから電話で友達と「明日はピアノのコンサートに行くんだよ」とかいう会話をした。
今朝は久しぶりに寝坊をした。遅い朝ごはんを食べてから着替える。
いつもよりすこしだけ服装には気を使った。外に出たら、ちょっと寒め。
もっと着込んで出ればよかった。
東京、日曜は街も人も平日とは少し別の顔。おいしいランチも悪くない。
でも寝坊をしたせいでブランチになった。
実は全部計画的、なぜなら今日はコンサートに行く。
コンサートはいつもちょうど夕食の時間。
あんまり早くお昼を食べたらお腹がすくし、先に早めのディナーを済ましてしまうと寝てしまうかもしれない。

会場に向かう。アークヒルズだったりする。
まじめそうな人たちに囲まれる。
さも興味あり気にプログラムに目を通す。

フムフム、今日はモーツァルトから始まるのか。

客席の照明がおちる。
おお、出てきた、ピアニスト!拍手拍手。
なんだかちょっと緊張してるっぽい。
こっちも緊張して暑くなってきた。薄着で来てよかった。
椅子の高さを直したり、袖を直したりなんかしてる。最初の音はどんな音なのか。

どうぞ、ごゆっくりお楽しみ下さい!

【2009年11月29日(日曜日でした)サントリーホールブルーローズでのリサイタルの当日配布されたプログラム用に書いた駄文を転載】

言葉について ②

言葉には、その意味とは全く別に、発する人の意図があることがあります。何かが好きだとか、嫌いだとか、良いとか悪いと言い、また書くのには、そう思っているということ、そしてそう思わせたいと思っているということとも全く別のところに、本当の目的がある可能性が、ありますね。

例えば、東電が、ライバル企業がいないのにたくさん広告費をかけていて、それは「会社のイメージのため」だけではなく、「原子力は、発電時にCO2を排出しないクリーンなエネルギーです」というメッセージのため(どうやら冷却に使われた温排水は大量のCO2を海洋から放出させるようだけれども)だけでもなく、そこにはもしかしてメディアとの癒着という背景があったのではないか、という手の今やありふれた話は、それは東電に限らず、お金や政治の話だけでもなく、ごく一般的な、メッセージと意図との、言葉だけからはわかり得ない関係に似ているように思います。

ブログを書くということが、ある種の戦略的な意味合いを持ちうるとしたら、その意図が、書き手には明確であって、読み手には不明である必要があるという気がします。(とブログに書いてしまってはだめなのだ。。)

こういうときに何となく『ミラノのバール』とか『おいしいワイン』、『ミラノサローネ!』みたいなものも書く気になれず、「こういうときに口を噤む奴は普段から何にも考えてない証拠だ」と言われると全くその通りで返す言葉もありません。

古典文学みたいなものは、その意図のようなものは、もともとなかったか、もはや意味を成さないものとなってしまっていて、作者のおかしな意図を探ろうともせずに、純粋に『言葉』を、その『行間』を味わえるというのが、大きな魅力なのかもしれない。むしろ、古典になるには、その言葉にいやらしい意図などがもともとない必要がある、ということかもしれない。

言葉の裏にいつまでも人を見ようとするのはすこしはしたないような気もする。音の裏に、或は音なんかもともとろくに聴いていなくって、ただリパッティが弾いていると言われて「高貴である」と感じてしまうよりはましなようです。

耳は意志だけでは塞げない唯一の穴であるというようなことをラカンが言ったそうで、それに対する、鼻はどうなんだ、という可笑しな反論は、実はただ面白いだけではなく、鼻をつまむと味が変わってしまうということもあり、ソムリエは右の鼻と左の鼻と別の匂いを感じることを知っている、などなど、鼻にもまた理解すべきことが、言葉の意味を超えた思いもよらぬ深い何かが、あるのかもしれない。とか。

5月19日京都府八幡市文化センターでのリサイタル(NHK公開収録)の観覧(無料)の締め切りが迫っています!詳細はコンサートページまたはコチラ