題名無しです

このブログについて、書くまでもない正直なところをすでに書いたような気もしますがもう一度書きますと、ピアノを弾くという仕事をしている以上、やっぱり人に知られるということ、どういう演奏をするか、というだけでなくどういう人かということについても少しずつ知っていただくことが、必要というのか、例えばベートーヴェンが耳が聞こえなくなったり、バッハが目が見えなくなったりしたことが、音楽そのものの素晴らしさだけではなく、入り口としての情報となっていることも事実なので、端的に言うとそういう意味合いのものです。特に書くことがあって始まったわけではなく、書くために何か努力ということもなく、書くための努力をして書くのではなく自然に書きたい、とも思い、自然に書くものもなく、ミラノということで住んでいる視点で街を紹介してみるにしても今時ネット上には情報があふれていて、食べに行っても恥ずかしくってブログのために一枚写真を、とか言えないし、料理をしても写真を撮る前に食べてしまう、コンサートの報告など反省ばかりで書けず、ハイフェッツが自伝を書くのを勧められたときに、「ヴァイオリンを弾いた」としか書くことがない、と言ったとか言わなかったとか、僕もどちらかというとそういう種類の人間で、いろいろ日常面白いことも起きてはいますが書くほどのことでもなく、カメラを持ち歩いて何かの折りに写真を撮って貼付けて一文したためるという芸も出来ず、でも、こんなことではいけないと、今月からなんでもいいから2日おきには更新するぞ、と鼻息荒くしていたところ、地震が起きました。

こんな状況では尚更書くことなんてないのです。こんなときにこんなクダラナイ文章を読む人の気が知れない、とは読んでいただいている「あなた」にちょっと失礼でした(笑い)。

特に愛国心があるというわけでもなく思っていましたが、日本人であるという思いは特に外国に住んで長いと自然と強くなっても来るようで、日本への思い入れは人一倍深いのです。劇場でイタリア人がナブッコのVa pensieroを歌って涙したりするのを見るとそんな歌のないのが悔しく、何か起きたらみんなで教会で神様に祈っているのを見るとそんな神様のいない日本が寂しく、本当に日本人は素晴らしくマナーがよくってあんな地震でもパニックにもならず、と言われても、お人好しの日本人、世界で唯一原爆を落とされて原子力の怖さを一番知っているのに、その上世界有数の地震大国(津波は世界中で日本語で呼ばれている)なのに、こんなにたくさん原子力発電所を作ってしまったことにむしろ腹立たしく思うのです。

ほらやっぱりね、と人が何か間違えたときに言うのは本当によくないと思います。すでに事故が起きてから、何年も前から警鐘が鳴らされていただろう、と言うのは、今は止めていただきたい。今は命がけで働いている人々を心の中で応援するしかない。結局は政治の話になるとしたら、国民は次の選挙で誰に投票するか(或は立候補するか)で真意を示すしかない。

音楽は、生きる意味を与えることが出来るものだと思っています。突然大袈裟でした。でも何のために生きるか、中学生みたいな問いですが、結構難しいですね。単純に、食べたり、寝たり、健康とか、仕事、お金、これらは何かのためにすることのように思えます。幸せのため、でも「幸せ」は振り返ってみて感じるものでしょう。この辺りの話は浅く深く、単純で複雑なので一概には言えないし、詳しくも説明できません。ともかく、音楽は、僕にとって、聴いているときに(弾いているときに)価値のある時間を過ごすことの出来るものだと思います。と、言い換えるともう生きている意味、とはかけ離れてしまう。音楽にもよる。どんな音楽でも当てはまる話ではない。ただの仕事人間なのかもしれない。それを自分の仕事だけは違う、と言い切って説明できずシドロモドロ、みっともなくなってきた。

こんな大災害のときに音楽の出来ること。チャリティーコンサートもいいけれど、本来音楽は、聴こえてくるもののように思います。控えめな押し付けがましくないものです。自然にそこに聴こえること、そこで耳を傾けること。美しい音、不思議な音、そのリズム、旋律、響き、流れる時間と満たされる空間。それが生きる意味を与えるものならば、辛い時、悲しいときにこそ価値を発揮するのかもしれない。

死ぬこと、それは大地震でも脳卒中でも交通事故でも当人とその家族にとっては変わりがないように思える。戦争で死ぬのと通り魔にさされて死ぬのとどちらも死には変わりがない。死について、この程度のことしか分らない。結局まだ本気で考えたことがないということなのだと思う。阪神大震災、今回の地震、生は死と表裏一体、いつ死んでもおかしくない。

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