言葉について ②

言葉には、その意味とは全く別に、発する人の意図があることがあります。何かが好きだとか、嫌いだとか、良いとか悪いと言い、また書くのには、そう思っているということ、そしてそう思わせたいと思っているということとも全く別のところに、本当の目的がある可能性が、ありますね。

例えば、東電が、ライバル企業がいないのにたくさん広告費をかけていて、それは「会社のイメージのため」だけではなく、「原子力は、発電時にCO2を排出しないクリーンなエネルギーです」というメッセージのため(どうやら冷却に使われた温排水は大量のCO2を海洋から放出させるようだけれども)だけでもなく、そこにはもしかしてメディアとの癒着という背景があったのではないか、という手の今やありふれた話は、それは東電に限らず、お金や政治の話だけでもなく、ごく一般的な、メッセージと意図との、言葉だけからはわかり得ない関係に似ているように思います。

ブログを書くということが、ある種の戦略的な意味合いを持ちうるとしたら、その意図が、書き手には明確であって、読み手には不明である必要があるという気がします。(とブログに書いてしまってはだめなのだ。。)

こういうときに何となく『ミラノのバール』とか『おいしいワイン』、『ミラノサローネ!』みたいなものも書く気になれず、「こういうときに口を噤む奴は普段から何にも考えてない証拠だ」と言われると全くその通りで返す言葉もありません。

古典文学みたいなものは、その意図のようなものは、もともとなかったか、もはや意味を成さないものとなってしまっていて、作者のおかしな意図を探ろうともせずに、純粋に『言葉』を、その『行間』を味わえるというのが、大きな魅力なのかもしれない。むしろ、古典になるには、その言葉にいやらしい意図などがもともとない必要がある、ということかもしれない。

言葉の裏にいつまでも人を見ようとするのはすこしはしたないような気もする。音の裏に、或は音なんかもともとろくに聴いていなくって、ただリパッティが弾いていると言われて「高貴である」と感じてしまうよりはましなようです。

耳は意志だけでは塞げない唯一の穴であるというようなことをラカンが言ったそうで、それに対する、鼻はどうなんだ、という可笑しな反論は、実はただ面白いだけではなく、鼻をつまむと味が変わってしまうということもあり、ソムリエは右の鼻と左の鼻と別の匂いを感じることを知っている、などなど、鼻にもまた理解すべきことが、言葉の意味を超えた思いもよらぬ深い何かが、あるのかもしれない。とか。

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