歌を聴く時に言葉を聞くことと音楽を聴く時に音を聞くこと

また長いこと更新しないでいる間、いろいろと書けることはあったし、ああ、ここでカメラを持っていれば、或は、なんであのとき写真を撮っておかなかったのだろう、というような後悔を何度も繰り返しまして、結局だらだら書きます。

先日ツイッターでイタリア語の発音について質問をいただきました。イタリア語はイタリアに住んでいるので何とか話せますが、特に発音について(だけでなく全般的に)真剣に勉強をしたことはなく、知っている範囲でごく曖昧にお答えさせていただきました。質問は “slentando” は「ズレンタンド」という発音になるのか、というものでしたが、単純に答えるとそうなります、ですが、考えてみると実は複雑でした。そもそも「ズ」には母音はないのでまずカタカナで表記するのが無理ですね。そして日本語の「ズ」の子音の発音はイタリア語では “Z” になりますが、「ズレンタンド」の「ズ」は “S” の濁ったもので、僕の曖昧な知識を恥ずかし気もなく披露しますと(汗)、、舌の先が下の歯茎に触れた状態で舌の真ん中辺りが上あごに触れるような感じで出る音が “S” で、”Z” は舌の先が上だか下だかの歯茎から離れる時に出る音のようです(汗)。濁った “S” は「さ、せ、そ」の発音の時の舌の状態に非常に近く、”Z” は「ツァ、ツェ、ツォ」の発音の時の舌の状態に非常に近いのではないか、と思います(汗)。例えば、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」でツェルリーナ(伊語ではゼルリーナです)が歌うアリア “Batti, batti, o bel Masetto”(バッティ、バッティ、オ ベル マゼット) のマゼットは “Z” で発音されるとなんだか可笑しい、でもそんなことは普通のオペラ好きの日本人の方にはわからないことなのだと思います。歌を聴く時に言葉を聞くこと、がどの程度鑑賞の上で重要なのか、よく分らなくなってしまいました。歌は全般的にごく当たり前な生活がもとにあるものが多く、そこで生活感の全く違う国の人にその生活感のところを分ってもらうのは難しいと思います。「歌」がそうであれば「歌」を書いた作曲家のピアノ曲もまた生活感が漂ってくるのかもしれません。生活、のような下世話なものから切り離されたところに「純粋」な「芸術」の「価値」があるのかもしれません。これは壮大な問題なので本当に気が向いた時にゆっくり考えます。

先日野外でベートーヴェンの悲愴ソナタを弾いた時のこと、弾き始めてすぐ、近所の教会の鐘が鳴り響いてしまいました。が実はそれは僕には聞こえなかった。コンサート後お客さんに「鐘が鳴ったのが残念だった」と言われて初めて鐘が鳴っていたことを知りました。それはつまり弾いている時に「音」を聴いていなかったということになると思えます。ピアノを弾く時、弾く前に既に次に出る音のイメージというものがあり、音楽をするということは指揮者のように「音」に先立って進んで行く必要があります。同時にどのような音が出ているか、というのもまた聴こえていないといけないと思っていましたが、そのあたりはちょっと微妙になって来ました。音楽を聴く時に音を聴くという当たり前のことについて考えさせられてしまいました。

例えば歌を歌う時、歌っている人は自分では自分の声は聞こえないというのは、自分のしゃべっている声が知らない間に何かの拍子で録音されて、それを聞かされた時の違和感を思い出しても容易に想像できます。ピアノの音は弾いている人にも聞こえますから(厳密に言うと客席やマイクの向こうでどう聞こえているかは分りませんが)練習の時には特に非常に集中して聴くことが大切だと思います。

ある音を集中して聞いていると他の音は聞こえないということもあるのでしょうか?

何となく感じたことを書きました。ただ感じたことを何となく書くだけでなく、ここいらでひとつ、先人の文献を引用したり、何かしら科学的な(或は哲学的美学的宗教的道徳的な)論証を取り上げたりすることで、ある種の解決というのか、見解にまで辿り着けるようになると、このブログもまた、少しは読んで面白いものになるのかもしれないな、とも思いますが、また中途半端に終わりです。次こそはここのバールのカフェが旨い!という具合にいきたいのですが、そうでなかったら、過去の中途半端に思い付きで書いた話を掘り下げてもいいのかもしれませんね。

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