雑談

告知ばかり続いたので今回はちょっとした無駄話でも。

「まあ二つの可能性のうち、どちらかをきみが選ぶことになったと考えてみてくれたまえ。ブリジット・バルドーとかグレタ・ガルボのような、世界的に有名な美人と、誰にも絶対に知られないということだけ条件にして、愛の一夜を過ごすか、それとも絶対に寝ないということだけ条件にして、彼女の肩に腕をまわして、きみの生まれ故郷の目抜き通りを一緒に散歩するか。ぼくはだね、それぞれの可能性を選ぶ人間の正確なパーセンテージを知りたいんだ。それには、どうしても統計的な方法が要求される。そこで世論調査事務所にいくつか当ってみたんだが、応じてもらえなかったよ」(クンデラ『不滅』第七部「祝宴」)

あるブログからの孫引きです。元のブログにはこの引用に続けて「――さてきみはどっちだい、などと野暮なことを訊かない。」と書いてあるのですが、そんな野暮なことは僕も訊きません。

次にクンデラのもう一つの書『存在の耐えられない軽さ』から。
たくさんの女を追いかける男の中に、われわれは二つのカテゴリーを容易に見分けることができる。一方はどの女にも自分に固有の、女についての常に同じ夢を探し求める人であり、もう一方は客観的な女の世界の無限の多様性を得たいという願望に追われている人である。
この第一のカテゴリーの男たちの夢中ぶりは叙情的である。彼らは女たちの中に自分自身、自分の理想を探し求め、たえず繰り返し、繰り返し裏切られている。なぜならば、理想というものは、ご承知のとおり、けっして見つけることができないものである。女から女へとその男たちを追いたてる失望は、その男たちの移り気にロマンティックな言い訳のようなものを与えるので、多くのセンチメンタルな女たちはその男が何人も恋人を持つことに感嘆させられるのである。
第二のカテゴリーの夢中ぶりは叙事的で、女たちはそこに感動的なものを何ひとつ見ることがない。男は女たちの中に何ら主観的な理想を投影することなく、すべてのことが男の興味の対象であり、失望を味わうことはありえない。失望することがないという性質は何やら不愉快にするものを内臓している。叙事的な女好きが夢中になってもそれは救い(失望による救い)がないように見える。
抒情的な女好きはいつも同じタイプの女を追いまわすので、恋人たちが代わっても、誰も気がつかない。その男の友人たちは、その男の女友達を区別できないし、いつも同じ名で呼んでいるので、たえず誤解が生ずる。
叙事的な女好きたち(ここにもちろんトマーシュが入る)は女を知ろうとするとき、すぐにうんざりする月並みな女の美しさにはそっぽを向き、必然的に珍しい物のコレクターになっていく。自分はこのことを心得ているので、いささか恥ずかしく思い、友人たちを困惑させないようにと、恋人と一緒に人前に出ることはしない。

これも同じブログからの引用です。今日は引用の日です。

《誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)。
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

僕は恐らく、前者、後者、4番、かな(笑)

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