「私は自分の仕事が批評され、自分はどの点で間違っていたり正しかったりしたのかを知ることを強く必要としています。」

ゴダール 私は自分の仕事が批評され、自分はどの点で間違っていたり正しかったりしたのかを知ることを強く必要としています。でもその場合、そのことの証拠が示される必要があります。私は自分ひとりで自分の映画を裁かなければならなくなることを恐れているわけです。私は批評されることを、ただし明白な証拠をもちいて批評されることを必要としているのです。かりに私が犯罪をおかしたとさ「れるとすれば、私はあなたに、私にその犯罪をおかす理由があったかどうかを証明する証拠を示すよう求めるはずなのです。あなたが私の最新作について書いた批評は読みました。でも私には、あなたがあの映画を気に入ったかどうかはどうでもいいことです。私がほしいのは証拠なのです。

ケイル まさか。どうでもよくはないはずです(笑)。

ゴダール いや、どうでもいいことです。

ケイル そんな……

ゴダール いや、まったくどうでもいいことです。私が望んでいるのは、批評家たちがより多くの証拠を与えてくれ、それらが私に次の映画のためのアイディアをもたらしてくれるということです。こんなことを言って申し訳ないのですが、でも私はあなたの批評からは、私はポーリーンとは意見が合わないということ以外は、自分の次の映画のためのどんなアイディアも手に入れることができないのです。そして私とあなたの意見が合わないということそれ自体は、私の助けにはならないのです(拍手喝采)。

 

ケイル 批評というのはきわめて孤独な仕事です。

ゴダール いや、そうであってはいけないでしょう。フランスのヌーヴェル・ヴァーグが力強いものだったのは、あれがたった四人の人間、四人の若造からなるもので、その四人が互いに語りあっていたからです。映画の世界で新しい運動がおこるときはいつも、たとえばここでコッポラとスピールバーグがおこしたときのように、あるいはイタリアでロッセリーニとフェリーニがおこしたときのようにーーあれは二、三年しかつづかなかったわけですが……それにかかわった人たちは、まだ監督としての地位を確立してはいませんでした。かれらは自分たちがしていることについて語り合うことを恐れてはいませんでした。でも今日では、監督たちはそれを恐れています。批評家たちでさえもが、映画について語りあおうとはしていません。われわれはどうだったかと言えば、われわれが書いていたときはこれとは大いに違っていました。私はフランソワやクロードやジャックと同じころに書きはじめました。われわれは映画を見、意見がくいちがうときは、その映画について一緒に議論しあったのです。ちょうど、ここであなたとアンドルー・サリスが、書く前に語りあうようなものだったのです……

ケイル でもそうすると、映画作家たちにとっては事はより困難になってしまいます。

ゴダール 事は困難になればなるほどうまくいくものなのです(拍手喝采)。

以上「批評の必要性について」 http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-46.html より。(「『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』より、辛口の映画評論で知られるアメリカの批評家ポーリン・ケイルとの、ゴダールの対談である。」とのことです)

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