自分で弾く、自分の演奏を聴く、聴かれた自分は聴かれることによって変わるわけです。弾いた自分は、弾いたことによって、また変わる。

前回なぜか「続く」と書いてしまったので、続きを書こうかと思い、読み返してみると途中の脱線が甚だしく、結論の説明が不十分で、何を言っているのか分らない文章でした。

ピアノの練習は体操ではなく(でもありますが)、音を聴き、音を探す作業なので、自分の演奏の影響も受けます。弾きながら聴きながら影響を受けながら演奏をし、練習をし、その中で、どのように演奏されるべきか、を考え、どのように演奏したいと感じるか、そのすべてが同時に(厳密には同時ではなくて少しずつずれていたりしますが)演奏に表現される、と私は考えています(後略)

この辺りが結論ですが分りづらいですね〜。言葉遣いが不自然で、「てにをは」や句読点なども非常に下手ですね。日本語で話すことも読むことも稀で、書くのはメールのみなので、こういうことになってしまっているのだと思います。これから少しずつブログを書くことで改善します。
「弾いている人は弾いている時に自分が弾いているのを聴いているので、弾いている時に聴いている自分の演奏にも影響を受けるのではないか」ともう一度言い直してみてもやっぱり上手く書けないので、上手く書いている人のものを引用します。

自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)

これは録音などをした時にあてはめると当たり前の話ですが、演奏する(練習も)ということは(ピアノ独奏であれば)一人で弾きながら自分の演奏を聴いているので、上の言葉にあるような状況を実は演奏中に常に体験していると思います。この文章はこちらからの孫引きですが、他にも面白い文章の引用がたくさんあり、以下の文章なども上の話との関連で孫引きしておきます。

……だが、解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批判宣言』所収)

ご丁寧に『風景』を『音』に書き直したりもしてくれています。《聴覚が分節化する音の物語は音が分節化する聴覚の物語にそれと知らず汚染しているということ、しかもその事実によって聴覚同士がたがいに確認しあう音の解釈は、遂に音が語る物語を超えることがない視点は、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。》

《存在が風景を読むのではない。風景が存在を読みとってゆく》(蓮實重彦)のであれば、「存在が音を聴くのではない、音が存在を聴きとってゆく」もしかり。

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2014年秋の日本公演

ピアノリサイタル「悲壮美そして情熱の調べ」
11/27(木)19:00開演 大阪 ザ・フェニックスホール
12/5(金)19:00開演 東京 サントリーホールブルーローズ
詳細はコンサートページをご覧下さい。

12月7日(日)15:00開演

大垣市スイトピアセンター音楽堂で宮松重紀指揮大垣市室内管弦楽団とブラームスのビアノ協奏曲第2番を演奏します。

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