音楽

文学の言語活動は、それが語ることによっても、また、その言語活動を意味あるものにする構造によっても定義されるものではない、ということを我々は悟るべきである。この言語活動は一つの存在を持っているのであって、その存在においてこそ、文学の言語活動を問うべきなのだ。その存在とは、現在ではどのようなものなのか?自己–包括、分身、その言語活動の中に穿たれる空虚に関わる何かである。(ミシェル・フーコー『狂気、作品の不在』より)

また1週間以上「フロムミラン」さぼっていたかと思ったら突然インテリを気取ってフーコーなんか引用しても、読者は騙されません。汗をかきかき、チンプンカンプン、「ううむ、何やらムツカシイ文章だな。少々ボクなりに説明させていただきますと、『文学の言語活動』とは、この文章の2ページほど前にある『マラルメ以前には、書くということは、自らの言葉を一つの所与の言語の内部において打ち立てることであり(中略)他のすべての言語活動と同じものであった』が『19世紀の終わりに、言語の作品は、それ自身のうちに、自らの解読の原理を書き込んだ言葉となった。』というクダリを踏まえているから、引用した文章だけを読んでわからなくっても不思議ではありません。それはエクリチュールの話ではなく、20世紀の特にフランスの文学作品に見られる現象の話で、その状況は現代の音楽にも通じるようです。『一つの存在』という言葉はune existenceという言葉であろうかとは思われるものの実存主義などとは無関係なことは明らかです。むしろある現実、独特の歴史を踏まえたごく個人的でさえある思考というような意味合いかと思われます(汗)。そもそもこの文章は精神倒錯と文学の話ですから簡単に音楽に結びつけるのは危険ですが、『一つの存在』を待つものであり、説明のしようのない空虚に関わるものであるという言葉は現代の音楽(作曲、演奏を含めて)にもまた当てはまるようにおもいます。———」

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