昨日書いたことについて思うことなど

どうも迂闊な性格であるようで、思い付くままに書く、などという名目で本当に思い付いたまま書いたわけだ。思い付くままなのなら全然考えられていないことでも書いてしまう容易さが許されるとでも思ったようだ。で、うっかり、またもや「芸術」。読み返すとむずがゆくなる。思い付くまま、ろくに知らない日本の芸術などに言及してしまっている。もちろん僕はよく知りもしない日本の芸術を批判したかったわけではないし、西洋の芸術の方が優れていると思っているわけでもない。あのときは、全く上手く書けていないけれど、クラシック音楽を聴くこと、学ぶこと、について書きたかった。と同時に、イタリアでもクラシック音楽はますます「伝統芸能」化しており、そういう捉え方になるのは、もちろん音楽をする側にも責任があるわけで、自分に対する戒めでもあっただろう。「ショパンを弾くポーランドの巨匠」というのはイタリアでもありがちな宣伝文句で、それは、「ミラノスカラ座で弾いた日本人ピアニスト(本場で認められた日本人)」という言葉にすがっている僕の経歴についても言えることだ。

芸術、という言葉は嫌いである。けれどやっぱり便利なので使ってしまう。随分前にFROMMILAN上でも自分なりに定義してみたくなったことがある。

「芸術の中にはいろいろな種類があって、一概に「芸術家」といってもそこには質の違いがある。例えばメイクアップアーティストも、アーティストという以上芸術家であって、でも彼/彼女は彫刻家とは質というか意味の違う芸術をする人である。ピアニストは作曲家のように創造的な仕事はしない。いわば俳優のように、媒体に過ぎないのであろう。けれど、そのような芸術家としての「質」を超える名演がある。「質を超える」と言った時、おそらく語彙の乏しいためにただの言葉遊びに陥っているような気がしたので、段落を変えて仕切り直す。」無題2007 年 4 月 29 日)から

上手く説明できないまま、止めてしまっている。僕があの時考えていたのは、恐らく「芸術」というのは目的と手段が切り離されないもののことを言うのではないかということで、たとえば、音楽では音は目的であって手段であるように僕には感じられた。作曲家は音を直接扱う。演奏者は楽譜を介して音を紡ぎ出す。指揮者は楽譜と演奏者を必要とするだろう。どうも少しずつ「純粋」でなくなっていく感じが、僕には、どうしてもしてしまうのだ。

さて、何について書いていたのだったか。純粋、とか、どうでもいい。思い付くまま書くと本題を外れてしまう、というのもそもそも本題などもともとなかったのだった。ふと、すっかり秋らしくなったミラノで夏を思い出す。下の写真はこの夏南フランスのサンラファエルというところで泊まった家から臨む海です。

Saint-Raphaël, France

Saint-Raphaël, France

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