記憶について

この文章は閑をみて書いているので、と言うよりも、大抵閑なくせに何かしら気持ちの整理がつかないことが多く、そういう状態を芸術家は忙しいと言うのだと、都合のいい時だけ芸術家になりすます自分を最近はもう受け入れることにしているので、長い間考えたことを深く掘り下げて書いているわけでもなく、言葉について書いてみたときも、前書きがやたら長くていまいち思っていることの伝わらない、それなりにくだらない駄文だったけれど、今回もむつかしいことについて書いてみます。

シャーロック・ホームズが、「記憶と言うのは引き出しのようなもので、一杯にならないように、無駄なことは忘れなければいけない」とか言っていたのを小学生のころに読んだように記憶していますが、そういえばニーチェも忘却を消化に例えていたし、ともかく記憶力にそれほど自信のない僕にとって、現在のこの情報化社会は、百害あって一利なしであります。パスタを食べながらテレビをつけると、世界中のニュースがたくさんのコマーシャルとバックミュージックの洪水の中で氾濫していて、「またテロか、ちょっとformaggio取ってくれる?」みたいな会話とか、夕食後、エスプレッソを飲みながら、スーパーを出たところに車が突っ込んできた事件について考えつつも、バラエティを見てゲラゲラと下品に笑い、そういえばさっきのコマーシャルの音楽はリヒァルト・シュトラウスのティルだったけれど、ティルといえば、若いチェリビダッケの激しい指揮振りと淡々としたフルトヴェングラーの大きなアゴーギクの対照が思い出されて、こんなたくさんの情報をインプットしつつ、いま勉強中のモーツァルトのアダージョがまだ覚えられない自分が嫌になるので、僕の家にはもう1年以上テレビもラジオもありません。

多すぎる情報は不器用すぎて処理できないので、情報量をできるだけ減らしているというだけのことですね。

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