音楽2

演奏という形の芸術はとても複雑です。作曲者がいて、楽曲があり、それを演奏する演奏者がいて演奏があり、それを聞く聞き手がいるという構図が成り立つかと思います。
作曲者は彼の前の世代からの伝統を受け継ぎ、彼の時代の影響を受け、その時代の様式、と同時に彼の追求する独自のもの、作曲のテクニック、それに彼の生活、計算、打算、経済、娯楽、すべてつぎ込んで作曲する。楽曲には解釈の歴史がある。演奏者は作曲者と同じ諸々のものを抱え、演奏(解釈)をする。演奏を聞く、ということは、ある解釈のもとで曲を聞くということになる。聞き手にはそれが作曲者の意図したものなのか、演奏者の意図したものなのかはよくわからない。それは演奏者にもよくわからないのかもしれない。

「書く」ということが歴史を作り上げたと言えはしないだろうか。
「書く」ことが人間の知識の蓄積の源であり、「読む」ことが過去を知る唯一の手段であった時、作曲という行為が音楽の歴史であった。20世紀には録音が「演奏」と「解釈」との歴史を作ったとも言えるのではないか。

「こうするべき」とか「こうするもの」ではなく、「こうしたい」、「こうありたい」、「こうである」が芸術家のとるべき姿勢である。というような文章は「私は嘘をついている」という言葉と同じく少し馬鹿げて聞こえる。

審判を下すのは自分に神を(あるいは死を?)感じる者に出来ることだと言ったのは確か太宰だったか芥川だったかよく忘れたけれど、批評というのは審判を下すというような種類のものではありません。好き嫌いや上手下手を書くことでもありません。感動したとか寝てしまったとか告白することでもありません。演奏の批評だとしたら、その演奏を解釈し、それを書き留めることだと思います。演奏(interpretation)というのは演奏者による楽曲の解釈そのもの、または解釈の実現です。演奏を解釈するということは、解釈を解釈するということになるのですが、演奏家が解釈を演奏で示す(演奏=解釈)のとは違い、批評家はペンで(文で)表現します。ドビュッシーの文章はプルーストに至らず、プルーストの音楽の解釈はドビュッシーに至らないのを見ると、批評をするというのは大変難しいことであるな、と思います。

中学生の頃だったかフルトヴェングラーの指揮するブラームスの4番の交響曲の録音にいたく感動して何度も何度も聞きました。でも今はもう具体的にどのような演奏であったか、よく覚えていません。よく覚えていないということは消化したということになるらしく、今の僕の演奏についてフルトヴェングラーの影響があると言えなくもないということになるというようなことをニーチェの「道徳の系譜」を読んでふと思ったとしたら、それは全く浅はかな読解力のせいなのでありましょう。

「聞く」と書くと門のなかに耳があるので何か盗み聞きでもするようだけれど、「聴く」と書くとまるで「徳」という字のようで、「聴衆」というのは何やら単純なものではなさそうだなという気がする。

Siamo LidicoRi

日本人は少しリディーコリ ridicoli(可笑しい)であると言われる。

けれども僕は四五分の後、電話に向はなければならなかつた。電話は何度返事をしても、唯何か曖昧な言葉を繰り返して伝へるばかりだつた。が、それは兎も角もモオルと聞えたのに違ひなかつた。僕はとうとう電話を離れ、もう一度部屋の中を歩き出した。しかしモオルと云ふ言葉だけは妙に気になつてならなかつた。

「モオル――Mole……」

モオルはもぐらもちと云ふ英語だつた。この聯想も僕には愉快ではなかつた。が、僕は二三秒の後、Mole を la mortに綴り直した。ラ・モオルは、――死と云ふ仏蘭西語は忽ち僕を不安にした。(「歯車」芥川龍之介)

芥川は批判の余地のない天才である。最後の作品の一つ『歯車』は繊細で鋭敏な感受性の研ぎ澄まされ過ぎて狂気に至る過程が克明に記された傑作であり、小生も何度も何度も読みました。が・・・・・。

上に引用した mole と la mort の聞き違えの話は、天才芥川でも日本語の中で明確な区別のない 「R」と「L」を聞き分けられなかったことを示している。

ちょうど、

Come stai? Morto bene!

ご機嫌いかが? 良く死にました!(「Molto bene!(元気です)」と言いたかったのである・・・)

というような馬鹿な会話をしてしまうイタリア語がぺらぺらな日本人のように。

無題

質と量というのは2つの異なる価値ではあるけれど、同じものの量が変わると質も変化することがある。「ピアノの勉強」も、ある一定の量を超えると演奏そのものの質が変わってくると思われる。こう書くと当然のことのようでもあるけれど、僕の言いたかったことは、ただ単に音を間違わなくなるとか、テンポが上がるとか、曲が手に入るとか、あるいは演奏が整理される、または「熟す」というような話ではない。

芸術の中にはいろいろな種類があって、一概に「芸術家」といってもそこには質の違いがある。例えばメイクアップアーティストも、アーティストという以上芸術家であって、でも彼/彼女は彫刻家とは質というか意味の違う芸術をする人である。ピアニストは作曲家のように創造的な仕事はしない。いわば俳優のように、媒体に過ぎないのであろう。けれど、そのような芸術家としての「質」を超える名演がある。「質を超える」と言った時、おそらく語彙の乏しいためにただの言葉遊びに陥っているような気がしたので、段落を変えて仕切り直す。

天才というものを僕はあまり信じない(信じたくない)。極端な例を挙げるとモーツァルトは、それはもう、大天才の極致のような人だけれど、考えてみれば彼のような教育を受け、経験を積んだ人も稀なので、素質の問題だけではなくて、スピードの問題、簡単に言えば「要領の良さ」が関係しているかもしれない。「天才は我々と一歩を隔てたものであるが、その一歩は千里である」とか芥川(彼こそ天才だけれど)が書いていたけれど、それもいわば花粉症がコップの水がこぼれるように発症するのと少し似ているとか書くと、その読みの深さに呆れられてしまうかな。

もちろん僕は自分も天才に到達できると言いたいのではないけれど、きっと不可能ではないとか、もしかしたら、ひょっとしたら、あわよくば、ナドナド何でもいいけれど可能性をゼロにはしたくない。とか、まあ典型的な「問うに落ちず語るに落ちる」タイプの僕には「語らざれば愁い無きに似たり」とかぼやいて煙草に火を点けるぐらいがちょうどいい。