WEB TV!

この夏収録したヴィデオが、リーメンのWEB TVで公開されました!www.limenmusic.comです。

Channel1で1日に何度も放映されています。TV ondemandのclassicalでは1曲ずつのヴィデオがいつでも見られます。

プログラムは以下の通りです。
ハイドン:ソナタ ヘ長調 Hob.XVI:23
ハイドン:ソナタ ト短調  Hob.XVI:44
ラヴェル:水の戯れ
ドビュッシー:水の反映
リスト:泉のほとりで S.160-4
リスト:超絶技巧練習曲第4番「マゼッパ」
リスト:愛の夢第3番
ショパン:英雄ポロネーズ
ショパン:ワルツ第3番イ短調

ハイドンの2つのソナタは特に有名なものではありませんがどちらも非常に美しい曲です。

ヘ長調のソナタは3楽章から成っています。第1楽章にはテンポ表示がありませんが、アレグレットと書かれていることもあるようです。32分音符のパッセージが多くテンポが落ち着いていても速く聞こえます。典型的なソナタ形式で、提示部は華やかで明るい性格に支配されていますが、後半では少し翳りも垣間見られます。展開部の後半では短調の劇的な盛り上がりが聞かれます。再現部の左手の長いトリルも聞き所でしょうか。第2楽章アダージョはヘ短調、いわゆるシチリアーノのリズムが用いられています。同じ調性で書かれたモーツァルトのK.280のソナタの第2楽章の先駆となった作品なのでしょうか。同じくモーツァルトのK.488のピアノ協奏曲の第2楽章もシチリアーノですね。この楽章はこのソナタの白眉であります。微妙な情緒の移りが美しく、深い悲しみ、ふと楽しかった過去を、美しい思い出を懐かしむ、そして絶望、やがて諦念といったところ。第3楽章はプレスト、打って変わって楽しい気分。前楽章の悲しい気分を打ち消してフォルテで始まるのではなくて、むしろ悲しみの中から喜びが聞こえてくるとでもいいますか、静かに始めてみました。単一主題のソナタ形式ともとれる形式を持っています。

このソナタでは一切繰り返しをしませんでした。楽譜には繰り返し記号があらゆるところに付けられていて、全曲が2回演奏されるようになっています。いわゆる古典派の作曲家は、その前の時代の風習に習ってか、よく繰り返し記号を用いましたが、特別な場合を除いて繰り返すかどうかは任意でいいと思います。したければすればよいし、繰り返しをしなくても充分で、冗長になる恐れがある場合はしなくてもいいと思います。同じ曲でも、将来いろいろな創意工夫を凝らしてみたり、たとえばやっぱり美しいから、という単純な理由でも繰り返しをする、ということはもちろんありえます。2つの楽章から出来ているト短調のソナタの第1楽章は前半も後半も繰り返しをする時用の小節が書かれており、調性の移り変わりにも興味深いものがあり、反復時の装飾などもこしらえてみたので前半は繰り返しました。ソナタ形式の後半(展開部と再現部)の繰り返しはモーツァルトにもよく見られますが、どうもぼくの感覚では、提示されたものの記憶がより定着されるために再現部の反復は理解できても、その展開と再現を反復するというのは謎解きの過程と犯人発見をもう一度説明されるようで、よほどの場合でないと、やっぱり少し饒舌に感じてしまいます。第2楽章は冒頭の短調の部分に繰り返しの指示がありますが、これはその後、長調を経て再び短調に戻った時に装飾が加えられて2度繰り返されており、形式的に不可欠な反復です。

ヘ長調のソナタが楽しくも悲しくもともかく外向的な装いを持っていたのに対して、ト短調のソナタは内省的だといえるでしょう。第1楽章では多用される歌の重なりが美しく、転げ落ちるような音形を持つ第2主題も独特です。ハイドン得意の意外な休符の用法が展開部と再現部で聞かれます。特に後者は減七の長く引き伸ばされた和音の上で歌われる嘆きとの対比が強い印象を残します。第2楽章はメヌエットでしょうか、執拗な女性終止とヘミオラが印象的です。前述したように短調と長調が交錯していますが長調のときもあまり楽しくはないようです。

ハイドンに続いて水をテーマにした3つの曲が続きます。ここでは時代の順序を逆にラヴェル→ドビュッシー→リストと並べてみました。

「水の戯れ」と「水の反映」は日本語名はよく似ているけれど、「戯れ」のほうは外から見た水の様子が描かれ、「反映」は原題「水の中の反映 Reflets dans l’eau」からも分かるように水中の様子が描かれています。これら2曲はピアノによる印象派的表現の代表的な作品ですが、その源泉はリストに聞かれ、ここで取り上げた「泉のほとりで」のほかにも「エステ荘の噴水」をはじめいくつかの作品が残されています。「泉のほとりで」は巡礼の年第一年スイスの第4曲です。シラーの詩の一節「さざめく冷たさの中で、若々しい自然の戯れが始まる」が冒頭に掲げられています。この一節、前半には「の中」が、後半には「戯れ」が見られるのは暗示的ですね。

リスト繋がりで超絶技巧練習曲から第4番「マゼッパ」を弾きました。マゼッパとは実在したウクライナのコサックの英雄でイヴァン・マゼーパと呼ばれています。コサックというとぼくは以前にも少しフロムミランで触れたプーシュキンの「大尉の娘」を思い出しますが、こちらはバイロンも詩に取り上げた悲劇の英雄です。リストはヴィクトル・ユゴーの詩をもとに作曲しました。序奏に続いて主題と5つの変奏、そしてコーダです。最後の変奏が激しく断ち切られるように終った後、息も絶え絶えのフレーズに続き、豪壮なコーダで幕を閉じますが、この辺りは最後に引用されているユーゴーの一節<il tombe, et se relève roi!>(彼は落ち、そして王として昇る)が音楽で表現されています。

ここからはアンコールのように有名な曲を3曲。もう、説明は要りませんね。

それではお楽しみ下さい!

茶の本 THE BOOK OF TEA

岡倉天心

岡倉天心

日本に帰るといつも何冊か文庫本を買います。たいていは滞在中に読んでしまい、買いに行く時間があまりないと同じ本を読みなおしたりします。同じ本を何度も読むのが好きです。
 この夏帰国したときには「茶の本」を読みました。
 いわずと知れた岡倉天心(覚三)の英語で書いた古典です。天心という人がいかに破天荒な人生を送ったか、ずば抜けた知性と強い性格と広い見識を持った人であったか、についてはここに書くには及ばないと思います。
 この本は当時(1906年)の西洋人に茶とその精神を紹介し、それを通して日本の理解を促すべく書かれたものだと思われますが、今となっては日本人にも面白い情報がいろいろ書いてある楽しめる一冊だ、と思ったとしたらそれは僕らの世代の日本人には(あるいは単純に僕には)もう、かつての日本人としての常識が欠けているからかもしれません。
 僕の読んだ岩波文庫版には訳者のはしがきとして弟さんの文章が冒頭にありますが、そのなかで、

情熱の人詩人バイロンに、風貌において性向において大いに類似を示した兄には、云々

という文章があり、性向はともかく風貌は僕だってジョージ・クルーニーに似ていると言いたくなりました。

George Gordon Byron

George Gordon Byron

イタリア人は人の風貌について、目の色(青、緑、グレー、茶、黒など)と髪の色(黒、茶、金など)と髪の質(ストレート、てんねんパーマなど)をまず口にするのを耳にしますが、日本人は目はほとんど全員黒、髪も黒でストレートがほとんどなので、人を見たときにどんな目の色でどんな髪の色でというのは僕は覚えていないことが多く(目の色については西洋人と違って僕らはあまり目を直視して話さないから覚えていないのかもしれない)、それから鼻の形(あまり大きいのは不細工だとされる)とか輪郭とか、細部の見方も何となく違うと思わされることがよくあります。その分彼らは東洋人の顔を見分けるのは得意ではないようにも思います。
 天心とバイロンが大いに類似しているとは流石に弟さん少し言い過ぎましたけど、今のようにテレビもなく日常的に西洋人の顔を見ることのなかった昔の日本人にとっては、外国人の顔を見分けることが今の僕たちよりも不得意であったに違いないと思いました。

ポルトヴェーネレ

昨日アップした写真はこの夏ヴァカンスで行ってきたポルトヴェーネレの沖にあるティネット島で泳ぐ(浮く)の図でした。

Portovenere

Portovenere

ポルトヴェーネレは、リグーリア州の東端にあり、12世紀にジェノヴァ共和国によって築かれました。世界文化遺産にも指定されています。

Grotta Byron

Grotta Byron

上の写真は Grotta Byron(バイロンの洞穴?)と呼ばれるポルトヴェーネレの西の端の教会の裏にある崖で、かつてバイロン卿がここから海に飛び込んでレリチという4キロ離れたところまで泳いだという逸話があります。希代のダンディー、バイロンがイタリアに来てはりきって自らの体力を誇示したというようなことなのでしょうか。昔の文人はやることが違いますね。
ポルトヴェーネレからボートに乗ってパルマーリア島、ティーノ島、ティネット島に泳ぎに行きました。こちらはパルマーリア島で友人と泳ぐ現代のピアニストの図です。

Isola Palmaria

Isola Palmaria

悪徳

「タバコ」はもちろん、「暴飲暴食」も体に悪いことは古くから知られています。度を過ぎると、大抵のことは体に悪いものです。体に悪いと分かっていながら快楽に走ってしまうのは、よくないことです。満足を求めて何事にも飽き足らず、何かと度を過ぎてしまうのは、よくないことです。

ピアニストというからにはピアノを上手に弾けなくては話になりません。ピアノを毎日練習して、音一つ間違わず、解釈も筋が通っていて、作曲家の意図をストレートに伝えるような演奏をすることが、ピアニストの本望です。

でも、作曲家の意図がストレートであったかどうか、シューマンはハイネを素直に解釈できたのか、ベルトランは健康な詩人なのか、ダンテの天国には「しなかったことへの後悔」が充満しているのではなかったか、芸術の道徳的な価値なんてワーグナーを愛したナチストを見れば幻想に過ぎなかったことは明らかなのではないのか・・・。

そういう話ではなかった。

暴飲暴食愛煙家、バイロン気取り、カラヴァッジョ、フランソワ・ヴィヨン、などは、大器晩成を目指すしかないしがない無名ピアニストには無縁であります。

Trattoria Dei Bana Ai Buranelli, Via Buranelli - Treviso

Trattoria Dei Bana Ai Buranelli, Via Buranelli - Treviso