初CD!

はじめてCDを作りました!
今年の4月にミラノのレコード会社「LIMEN(リーメン)」の代表、ミケーレ・フォルツァーニ氏との交渉が始まりました。

Studio Forzani

Studio Forzani

当初は後援会アンピオのために、そして僕自身のプレゼンテーションのために1枚自主制作をしようと思い、ミラノのレコーディングスタジオを回ったところ、ストゥーディオ・フォルツァーニというスタジオがなかなかいいスタインウェイを持っていて、過去の録音の音も少し独特で面白そうだったので、代表のミケーレ氏とアポを取り、僕の事情を説明したところ、非常に興味を持ってくれ、彼のレーベル「リーメン」から出しましょう、ということになり、その後いろいろ紆余曲折はありましたが、ようやく僕が来月日本に着くころには日本発売、イタリアでは来年1月発売というところまで漕ぎ着けました。

何を録音するかは悩みましたが、やっぱりショパン、自分なりには今一番自然に接することができる作曲家であると思っておりまして、でも、こんな大作曲家を取り上げても、数ある名演名盤の陰に隠れて僕の駄演なんて存在価値がないだろうとか、考えもしましたが、いろいろ難しいことは考えずに最善を尽くして録音をする、最善を尽くすことに意義がある、とミケーレに言いくるめられ、結局オールショパンです。
プログラムは、3つのマズルカ作品59/舟歌作品60/2つの夜想曲作品55/バラード第4番/即興曲第3番/英雄ポロネーズ/ワルツ第3番、以上です。
後期のショパンの名曲を集めたもので、最後のワルツはおまけのアンコール、といった具合ですが、プログラミングのちょっとしたひねりはというと、調性がサイクルを描くようになっておりまして(イ短調-変イ長調-嬰へ短調-嬰ヘ長調-へ短調-変ホ長調-ヘ短調-変ト長調=嬰ヘ長調の同主調-変イ長調-イ短調)、折り返し点である変ホ長調のノクターンOp.55-2は有名な曲ではないですが、僕が昔から特に気に入っていた曲で、大学院の修了演奏で初めて取り上げて以来何度も弾いてきましたが、最近ようやく少し自分のものになってきたと思えるようにもなってきたかな?、好きだけど表現が難しく、難しいだけに思い入れのある曲です。
3つのマズルカ作品59は50曲以上あるマズルカの中でも、技術の円熟と表現の深さから晩年の傑作とされています。「晩年」と書きましたが1849年に39歳で他界する4年前、1845年35歳のときの作品であるということはちょうど僕の年です・・・。時代が違うとはいえ恐ろしい円熟度の違いですが、39歳で死なないようにして、少しでもショパンの作品の表現の深さに演奏を近づける努力をし続けたい、その始まりの記録としてのこのCDの意味が僕にはある、とかね。
舟歌というと、なんだか演歌みたいですね(舟唄だったでしょうか)、でもショパンのほうが先に書きました。なかなかの大曲でして、演奏は至難を極めておりますが、その技巧は歌うことと多様な響きの万華鏡を再現することに捧げられるべきで、とか、この手の注釈を自分のCDについて書くときにするのはやめて、とっても美しい曲です、僕は大好きです、ぐらいに留めておきます。
舟歌が決然としたド♯-ファ♯(ショパン自身は初演の際にこのフィナーレを非常に静かに演奏したという記録があります)で終わると、夜想曲Op.55-1が半音下のド-ファで始まります。
何度も繰り返される悲しみに満ちた主題が、劇的な中間部を経て再び帰ってきたときには美しい装飾に覆われ、最後には明るい分散和音の中に雲と散り霧と消えてしまいます。夜想曲の2曲目Op.55-2は、夜想曲の典型的な左手の幅広いアルペッジョの上でショパン独特の複雑な刺繍模様を思わせる旋律が綿々と紡がれる、一遍の詩です。
話が突然変わりますが、インターネットというのは非常に便利なもので、たいていの曲の曲目解説などは見つかるし、コンサートやCDなどの批評なども満載で役にも立ちますが、いったい誰が書いているのか、名前もなく、実に信用のならない、でもインターナット上で公開されるとなにやらそれなりの価値があるような印象を与えるものも多いので少し要注意でもあります。大体演奏の感想のようなものは、楽しかった、すばらしかった、などはよいのですが、コンサートの酷評などを匿名で書いているものなどを読むと、何が目的でそういうことをするのかも理解できず、プロの批評家や音楽家がそのような悲しいことをするとも思われず、愛好家、音楽を愛するのはいいけれど、音楽をして食べていくという厳しさも知らず面白半分で一生懸命なプロの足を引っ張るのは勘弁していただきたい。音楽の批評をせざるを得ないときには、もし気に入らなかったのなら、「よくなかった」というようなおかしな言葉遣いはやめて(音楽には良いも悪いもない)堂々と「分からなかった」と言ってもらいたい。ましてやろくにピアノのテクニックについて考えたこともないくせにえらそうに「ピアノの弾き方」みたいなものを豪語するのはもってのほかであって、偉大なピアニストたちがみんな違った弾き方をしているのにどうして断言することができるのか。ホロヴィッツが「僕は腕に力が入ってしまって木枯らしは弾けません」と言ったとき、それは彼のテクニックに欠陥があるのではなく、彼の表現に即したテクニックに向かない曲があるというだけであるし、ブルーノ・レオナルド・ゲルバー(素晴らしいピアニストです)が「ルドルフ・ゼルキンにはテクニックに欠陥がある」とか言ったと聞いたとき(人から聞いた話は信用できないけれど)僕は「でもゼルキンの演奏には誰にもない説得力があるんだけどなあ」とも思ったわけで、ゼルキン父は彼の音楽の表現の手段としての選び抜かれたテクニックを持っていたし、リヒテルのように弾きたかったらリヒテルのテクニックを身に付けるしかないし、ツィメルマンのように弾きたくなかったらツィメルマンのテクニックは身に付けなくてよいし、自分の音楽がしたければ自分のテクニックを見つける他はなく、そもそもテクニックを音楽と切り離して語る時点で無意味である!ちょっと脱線、力説してしまいました。
この夜想曲Op.55-2について「明確な形式は感じられない」とか「決まった形式がない」という手の解説をひとつならずネット上で発見しまして、「形式」という言葉に少し引っかかってしまったというわけで、この曲には明確に2つの主題があり、A、Bとしますと、A-推移部-A’-B-展開部-A”-B’-B”-終結部というまったく古典的な「形式」があり、まったくインターネットは信用できない、と自分のホームページに書き込むという意味のなさにわれながら呆れてしまいました。
この夜想曲の冒頭の旋律はショパンの多用した多声的な単旋律とでも呼べるものの典型で、
シ♭      ラ♭・ソ        ソ・ファ  ミ♭
ド・レ・ミ♭    シ・ド・レ・ミ♭    レ(ミ♭)
という構造を持ち、先に「詩である」と書きましたが、まさに構築されるものであるところの詩としての細部にまで至る緻密な「形式」があるのであります。
傑作の誉れ高い第4番のバラードでは悲劇的な何かが表現されており、ツァラトゥストラの言葉を借りると、「ここでは高さと深さが測られている」といったところだと思います。
Op.59-1のマズルカとこのバラードには楽譜間の相違が顕著なので、ここで楽譜の問題にも触れざるを得ない。ショパンは原典版もいくつも出ているし、解釈版は数え切れないほどあり、どの楽譜を使えばいいか、分かりにくいですね。初版や自筆譜に接し、できるだけ多くの楽譜に目を通し、比較対照を繰り返し、楽譜の注釈を読む。最後に演奏するときは、自分の感覚ですね。それは演奏するたびに変わっていくと思います。ショパンがモーツァルトを弾いたときに、今のピアニストのように原典にこだわったかどうかは疑わしいと思います。原典にこだわるという姿勢は、ショパンの意図した音楽を再現するという目的であったとして、ショパンの演奏家としての姿勢を再現することには必ずしもならず、考え始めるとどこまで行っても(もちろん僕はどこまでも行ってみました)結論が出ず、弾く前にすでに楽譜の段階で不安があるようでは演奏などできないので、最終的にはその時点の自分を受け入れて、好きにすればよいと思います。今の時代の自意識過剰な芸術家は批判を恐れ、最新の楽譜と解説に目を通し、結局は好き勝手に弾くことに今の自分が一番素直に表れるのであると開き直ったりもするのです。・・・十分勉強しないと恥ずかしくて好き勝手になんてなれませんからね。
第3番の即興曲はショパン独特のメリスマといいますか、刺繍模様、アラベスク、といったものにも例えられ得る、装飾のようで旋律、たゆとう叙情、日と影、雨と風の変化の連続の中に非常に繊細でエレガントで洗練された趣味、ふと口走る情熱、人知れぬ涙、涙の谷、でも微笑、凛々しく正装、この程度でよいでしょうか。
英雄ポロネーズはかっこいいですね。
男装の麗人第1号ジョルジュ・サンドの愛人、ちょっと女性的なショパンというイメージとは程遠い英雄振りです。
余談ですが僕の住んでいる建物に2人の友人、ジョルジョGiorgoとサンデルSanderというのがおりまして、二人合わせてジョルジョ・サンデルというのは面白くないですか?
マズルカOp.59が45年、舟歌Op.60が46年、即興曲Op.51が42年、ノクターンOp.55、バラードOp.52、ポロネーズOp.53は43年と後期に属する作品であったのに対して最後のワルツは1831年、21歳の年に書かれました。このワルツは後に作曲された2つの華やかなワルツとともに出版された際にひっくるめて「華麗なる円舞曲」と名付けられましたが、華麗ではありません。内省的といいますか、回想、憧れ、などの言葉が思い起こされる、悲しいワルツです。
非常に長くなりました。最後に少し大げさになりますが、僕はプルーストが芸術家と芸術作品を切り離そうとしたことに共感を覚えるし、フーコーが作品には狂気は存在しないといったとき、作品が作品として完結しているという論点に興味を持つ者だけれど、でも、このCDには僕のこれまでの全生活が盛り込まれている、ということも肯定せざるを得ないと、書かざるを得ない。

プログラミングの妙

「どうやってリサイタルのプログラムを決めるのですか?」と聞かれることがある。

この言葉に答えるにはなぜ僕がピアノを弾くのかというあたりから説明しなければならない。

それはそんなに単純ではないようだ。

「ピアノを弾く、なぜならほかに何も出来ないから。」

と言ってみたこともあるけれどそれは少し嘘である。悪意のある嘘ではない。面白くもないから冗談とも取れない。少し自分を蔑んでいるようで、少し世間を馬鹿にしてもいるような、嫌な後味のする言葉である。けれど真実の一片を含んでいなくもなさそうである。幼い時からピアノを学び、大学、大学院、留学、今ではお金をいただいて弾く、という流れがあるので、少し自信、というか、他の仕事よりはピアノを弾くことのほうが少なくともまともに出来る、という感触はある。

その辺りの思いを考慮して「お金のために弾く」と言ってみたこともあるが、それは結果論的でもあれば(お金を稼ぐために勉強し始めたわけではないので)、少しずうずうしくもあり、あまり効率のいいお金の稼ぎ方でもないから説得力にも欠ける。「お金と名声のため」、「拍手と賛辞と贅沢のため」、「酒とバラの日々(原題「ワインとバラの日々」のほうが好きだ)のため」、「あなたと夜と音楽のため」、のだめカンタービレという漫画が日本ではやったようだけれど、これらの「のため」は少し不謹慎なようだ。なぜピアノを弾き始めたのかというと、声楽家の両親の下で極自然にピアノを弾き始めたというような次第なので、本当に自分で選んだのかも疑わしく、大袈裟に言えば「なぜ生きているのか」、「生まれたから」、というような論法と似てきて、本当のところは説明で きない。

「ピアノが好きだから」、「弾き始めてみたら好きになってしまったから」という辺りが素直で良い言葉のようだけれど、お金のために弾いたりもするわけだから、純粋過ぎるし、少し照れくさい。「好きだから」というだけなら、何もわざわざ多くの方にご足労いただいて聞いてもらわなくっても、家で自分のために 弾いていればいいわけだ。

「自分を表現するため」。

こんな感じはどうだろう。なんとなくぴんときた。恐らくこれだ。表現ということは、それを受け取る人もいないと意味がない。なぜ、人前で弾くのか。それ が僕の自己表現の方法だから。少し照れくさい感は残るけれど、真実が居心地のいいものであるとは限らない。照れくさい生き方を選んだというだけのことである。

この答えについて良く考えてみると「何のために自己を表現するのか」という問いが聞こえてきた。確かに生きるために自己を表現する必要はない。まるで露出狂か何かのようにも思えてくる。

ピアノの弾き方を学ぶことは表現の手段を学ぶことである。と言われる。

鍵盤を押す感触が声を出すのに似てくる。指から音が出るのだ。指が鍵盤の上を愛撫する。音色と触感が直結する。ピアノのテクニックの理想である。このようなテクニックは手段であることにとどまらない。手段と目的というような構図は僕の考える芸術の範疇には当てはまらない。表現することと表現者は切り離せない、と最近思う。

当然のことながら、作品は作者の手を離れるものである。単純に言うと、ベートーヴェンの音楽を理解する上で彼の人生を知る必要はない。彼の作品の価値は彼がどういう人生を送ったか、どういうときに書かれた作品か、何を感じ、何を考えて書いたのか、ということとは関係がない。ドストエフスキーの小説を理解するためにはその作品をよく読む以外に方法はない。ショパンを弾くためにポーランドに行ったりパリに行ったりジョルジュ・サンドを読んだりする必要はなく、ドン・ジョヴァンニを歌うためにマルツェミーノ Marzemino を飲む必要はない。という話には僕は同意する。ショパンのバラードを弾くときに、如何にピアニストが苦しい状況にあったか、又は楽しい気分であったか、はその演奏の価値そのものとは関係がない。

けれどもそこには演奏者の生活がどうしてもにじみ出てしまう。演奏や作品には演奏者や作者の血と涙と笑いが込められているのである。

ニーチェは悲劇を「観る」ことの意味を説いたけれど、悲劇を「演ずる」意味には触れなかった。彼こそはその悲劇的な人生を通して哲学を展開する意味を書ける人物であったのに。

結局「何のために自己を表現をするのか」は、よく分からなくなった。「表現」は手段であって目的でもあるから説明できない、といったところであろう。

ともかく僕は、自分を表現するのに適していると思う曲を弾き続けるだろう。

自分で自分のことを理解するのが難しいように、自分を表現するのに適しているのはどの曲か、もまたムツカシイ。

プログラムを決めるのはいつも悩みの種である。