録音について

チェリビダッケのインタビューです。録音嫌いで有名だった指揮者で、なぜ録音が嫌いか説明しています。録音する場所とその録音が聴かれる場所の音響が違うこと、音響はテンポを決める重要な要素でお風呂と野外では全く違うテンポが要求されること、などなど。

これは録音について古くから言われる問題の一つです。それに対して、Youtubeのサイトのコメント欄にもイタリア語で書かれていますが、コンサートホールでも席によって全く聴こえ方が違うこと、レヴェルの高い録音と再生こそが理想的な音楽の鑑賞に最も近付くことが出来る、という反論がされてきました。

次はグレン・グールド。スクリャービンの欲望 Desir Op.57-1 の録音の時のインタビューです。

ピアノの録音について、オスカー・ピーターソン(ジャズピアニスト)のようにピアノの中に(弦のすぐ上に)マイクをセットする方法、「美しい景観のバルコニー」のようなドイツ・グラモフォンに代表される方法を例に挙げ、この曲で彼は3対のマイクをピアノに近いところ、少し離れたところ、遠いところにセットし、ミクシングの段階で映画の遠景やズームアップのような効果を追求します(次のヴィデオ)。

音楽の録音についての2つの両極端の視点をご紹介しました。チェリビダッケの否定的な意見にはもっともなところもあると思います。ネガティブな面は、音量にもあると思います。チェリビダッケはオケの楽器間のバランスについて、録音の編集でバランスを操作するのは音楽的でないと言っていますが、バランスだけではなく、録音されたもの(CDなど)は再生時にいろんな音量で聴けること、本来の音量が分らないというのも難しいところです。コンサートホールにおいても舞台からの距離によって変わってくるので、この点もただ単に録音の問題とは言えないのかもしれません。音量は音色とも密接な関係にあります。

グールドの試みは当時としては新しく面白いものだったかもしれませんが今では少し古い感じが否めません。が、このようにアグレッシヴに録音の可能性を切り開く姿勢には大きく学ぶものがあると思います。

これからも考えて行かなければならない問題の一つです。

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5月16日西宮プレラホールにてリサイタル

19:00開演(18:30開場)
前売3,000円、当日3,500円
主催:西宮市プレラホール、西宮市プレラホール指定管理者(株)MBKオペレーターズ
共催:Ampio(吉川隆弘後援会)
ご予約・お問い合わせ
西宮市プレラホール TEL 0798-64-9485

program:
ベートーヴェン ピアノソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」
リスト エステ荘の糸杉に 第2番
リスト エステ荘の噴水
ストラヴィンスキー ペトルーシュカから3つの断章
プーランク ナゼルの夜

ピアノの弾き方など 4

Glenn Gould

Glenn Gould

「ピアノの弾き方など」という題で書き始めることしたのは、奏法について、どのように鍵盤を押すかという辺りのことについて書こうかな、という考えがあってのことであったのに、どうも迂闊な性が祟って、またもや「表現」とか、さらには「リズム」とか、最も重要な問題に引っ掛かってしまい、なかなか本題に入れず、苦労をしました(ここでいう最も重要な問題というのが他の問題との間でどのようにその重要さが計られるのか、というような問題には、もう、触れない)。

Alfred Cortot

Alfred Cortot

そもそも「弾き方」を知っていると思ったから「弾き方」を説明しようと思ったはずだったのだけれど、いざ「弾き方」について書き始めてみると、「弾き方」は実は単純な「弾き方」に収まらず、音楽の表現の問題、ということは「音楽」にとどまらず「自己」の表現でもあるから、趣味の洗練だけではなくて、人としてのあり方なんかも含まれてきそうで、ああ、まだまだ僕は「弾き方」を知らないし「弾き方」なんて書けない!という結果になりました(書けないハライセにこの1文の中で7回も「弾き方」と書いてみました)。

Arturo Benedetti Michelangeli

Arturo Benedetti Michelangeli

もう少しかけるテーマで書かないと自分も読むほうもつまらないですね。

Vladimir Horowitz

むむむ

やっぱり難しくなってきたのである。
日常生活の中にたくさんの問題や悩みを抱えつつ、そ知らぬ顔をして颯爽とステージに登場してピアノを弾くのが精一杯、その上日頃思うことや生活のひとコマなんかを書くのは簡単ではないのである。
コンサートページの報告(詳細)も実は難しいもので、コンサートの前は不安でいっぱい、コンサートのあとは反省の山積みで、書くことでその不安は現実にもなりかねないし、うまく弾けなかった反省を書いてしまうと「この程度の実力です」として記録されてしまうようで、結局なるべくシンプルな当たり障りのない感想に終始してしまうのです。

「演奏」もまた「芸術」のはしくれなので、そこではやっぱり何かが「表現」される(表現しない芸術もあるかもしれませんが)わけで、私は出来るだけ表現の豊かな演奏をしたいと心がけているのだけれど、そこで「表現」されるのは、「感情」「心情」「思想」などではなくて、むしろ「生活」といいますか、「人」そのものが垣間見られざるを得ないような気がしてきていて、ということは、このテイタラク、こんなだらしのない生活をしているようではろくな演奏にはならないのです。

でも芸術は道徳や宗教ではないので、あるいは、だめな自分を受け入れて(どこかで書いたかな?)そんなだめさが演奏の中に如実に現れれば、それはそれで面白いのかもしれない。日常生活の中での笑いと涙をピアノを通して大真面目に披露する、というのは随分滑稽な図だけれど、滑稽なだけに見て聞いて面白くないこともないのではないか。とかやっぱりまだまだ甘いな。

「書く」のが難しいのは、要するに、すこし種明かしをしてしまうような気がするからなのかもしれない。舞台上ではなにやら真剣そのもの、真摯でストイックな姿勢を取り繕って、もし「表現」なんかも出来たところで、蓋を開けてみれば「なーんだ、こんな奴なのか」などと思われたくはないというところでしょうか。

「表現する」というのは単純なことではない。

美しいメロディーを、美しい音色で、美しいフレージングと美しいアーティキュレイションで表現しようとすることは、結果的には何を美しいとするか、美しいとは何か、を表現しようとすることに他ならない。あるメロディーの美しさそのものは、その構造をいくら分析しても解明できない。音楽に意味と価値を与えるのはただ演奏のみである。まあ、簡単に言えば、「ファーミ」という2つの音が美しいかどうかは演奏次第だということです。あんまりうまく説明できていませんね。

例えば、グールドのゴールドベルクのアリアの演奏の素晴らしさは、リズムとフレージング、アーティキュレイション、音色の完璧な均衡にあるというような批評は、それは結果論に過ぎない(往々にして批評というのはそういうものであるが)し、ならその均衡とやらを研究すれば私にも弾けるのでしょうかというと、そういうものではない。表現すること自体が問題なので、表現された結果を似せても始まらないのである。いつの時代も詩人達は詩のために生涯を捧げてきたのではなかったか。「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」と歌った時、ヴェルレーヌはかなりつらい状況にあったのだろうし、太宰が「葉」の冒頭でこの1節を取り上げたということは、彼は苦しい中「叡智」を読んでいたのである。僕らピアニストだってまかりなりにも芸術家、「美」のためには魂を悪魔にでも(もちろん神様にも)売る覚悟があるのであるのである。(心意気を漏らしただけで、犯罪を犯すとかいうことではありません。ちなみに最近私はサルトルの「嘔吐」を久しぶりに読み返しています。)

書くことの難しさをだらだらと書き綴っていたかと思いきや、どうも話に力が入ってきて素人丸出しの芸術論、「なあんだ、やっぱりこの程度の奴なのか」と思わせておいて、でも、そんなダメな自分を否定するどころか受け入れて、なかなか私も多忙なのであるのである。