ピアノの弾き方「小指の空手チョップについて」

自分でピアノの弾き方を書こうとするとかしこまってしまって書けなくなりそうなので、ピアノの弾き方について書いてある面白いブログにコメントをすることで、僕のピアノの弾き方について考えていることも垣間見られる(垣間見せられる)のではないか、という試みです。

「小指は手のひらを開けて垂直に降ろします。つまり、空手チョップのように。」(ピアノの弾き方④鍵盤

これはこのブログの中の最も極端な文章のひとつかと思われますが、では、そのように弾いている例を。下のビデオの7分のあたり、バッハのピアノ協奏曲第1番の冒頭のレミファ、ミ、レ、ラ、レーのレーはまさに空手チョップです。

このブログの著者は「私はリヒテルが好きなんです」と仰っていたことがあり、空手チョップをするから好きなのではないのだろうけれど、リヒテルの空手チョップはシューベルトでもプロコフィエフでも至る所で見られます。

小指と言えば、下のビデオの1分32秒くらいから左手の小指を鍵盤の手前の木のところに支えてるように置いているのが印象的です。僕は左の親指を同じように使うことがありますが、小指をこのようにするのは彼しか見たことがありません。親指をそのように使っている人も見たことがないけれど。

卵を持った時のようにした状態の指というのは、小指に関しては特に力のかかり方が自然でなく、指が少し内側に湾曲してしまっている方なども見かけます。いろいろな弾き方のピアニストがいるので、一概には言えませんが、手にあまり負担のない弾き方がいいですね。

ピアノの弾き方④鍵盤では小指チョップのあと、「ピアノの鍵盤は上級者になってもできるだけ指を動かさずに弾くのが理想です。」という話になるのですが、これはどうなのでしょう、「できるだけ指だけを動かして弾くのが理想です。」と言う人もいそうですね。

次の文章、「頭が想像した音をできるだけ正確に速くストレスなしに鳴らすには余分な動きをしてはだめなんです。」の「頭が想像した音」がまた難しい。「頭が想像した音」を弾くだけではないので。もう少し考えます。

曲全体をまるで一目で見渡すかように聴くこと、または音楽と絵

ミケランジェリがチェリビダッケとのコンチェルトのアンコールでドビュッシーの「ラモー讚」(映像第1巻の2曲目)を弾いているビデオです。

チェリビダッケはミケランジェリについて「彼は彼を愛し理解する人、彼に対して批判的な立場でない人を切に必要としている。私のことを理想的な人物だと思っているらしく、実際に彼にはそういう感情を持っているし、彼の計り知れない孤独を私は恐れている。」とイタリアの全国紙コリエーレのインタビューで話しました。(5 ottobre 1992 – Corriere della Sera

他のインタビューでは「彼(ミケランジェリ)はクライマックスと曲のはじめと終わりに関連を持たせることが出来る唯一の人だ。」とも言っています。以前Youtubeにもありましたが見付からず、このリンクはFacebookのアカウントがないと見られないかもしれません。 http://www.facebook.com/video/video.php?v=1301124047123

この言葉は僕には非常に興味があって、モーツァルトの有名な手紙の言葉を思い出させます。

「ちょうど美しい一幅の絵或は麗しい人でも見る様に心のうちで一目でそれを見渡します。後になれば、むろん次々に順を追って現れるものですが、想像の中ではそういう具合には現れず、まるですべてのものが皆一緒になって聞こえるのです。」

ちなみに、この手紙は小林秀雄も「モオツァルト」に引用していますが、彼はこの前後のところにより惹かれたようで、特にこの部分には言及がありません(苦笑)。

「クライマックスと曲のはじめと終わりに関連を持たせる」には「一目でそれを見渡し」「皆一緒になって聞こえる」のでないといけないのではないかという気がします。

以前ツイッターで「音楽では細部と全体との関係は、絵画彫刻とは全く異なる。楽曲の全体的な印象というのは、記憶力に関わる問題でもある。鑑賞において、鳥瞰図のようなものはなく、あくまでも木々の間を歩くことから森を把握するしかない。」とつぶやいたことがあり、その時にこのような感想?をいただきました。

我々の視線は、ある時は、描かれたある事物ともう一つの事物との対応関係を見ていたり、またある時は画面のなかをリズミカルに動きまわる筆致の動きを追っていたり、ある時は白から緑、緑から黄色、黄色から赤へと微妙なニュアンスで変化してゆく色彩の震動を感じていたりするというような、視線の『動き』として、部分と部分、要素と要素を動きながら繋いでゆく、見るという行為の『持続』によって、この絵を捉えてゆくしかないのだ。」(「音楽と他の芸術の相違をめぐって」

絵もまた音楽のように「動き」の「持続」として捉えるという全くもっともな指摘に恐れ入ったのですが、先のモーツァルトの言葉はその反対に、音楽もまた絵のように「全体を俯瞰(ふかん)する」ことができるということを言っており、そして、そういう視点を持って初めて「クライマックスと曲のはじめと終わりに関連を持たせる」ことが出来るのではないかな、と思いました。

で、まだ何か言い足りない気もするのですが、この話はこれ以上掘り下げると永遠と瞬間の話とか始まって恥ずかしいことになるか、または、ある曲を最初から最後まで歌わなくてもその曲から受けた印象を思い出すことが出来るように実は音楽は誰にでも一瞬のものとして捉えられているじゃん、という陳腐なことになるので終わりです。

再び前ポストと同じコンサートのお知らせです。
11月10日に兵庫県西宮芸術文化センター神戸女学院小ホールにてリサイタルをします。
日 時 2011年11月10日(木)
開 演 19:00  (開 場 18:30)
会 場 芸術文化センター 神戸女学院小ホール
料 金 自由席(一般)3,500円/(吉川隆弘後援会会員)3,000円
お問い合わせ:Ampio(吉川隆弘後援会)TEL 0798-73-3295
program:
ベートーヴェン:ピアノソナタ第7番ニ長調 Op.10-3
プロコフィエフ:ピアノソナタ第6番イ長調 Op.82
ドビュッシー:映像第2集
ショパン:ノクターン第1番変ロ短調 Op.9-1、マズルカ第41番嬰ハ短調 Op.63-3、スケルツォ第2番変ロ短調 Op.31

Barolo “La Serra” 2004

昨日サンタマルゲリータに住んでいるテノール歌手川野名康夫さん(大学の同級生、今でも非常にお世話になっています。敬愛を込めてヤスオと呼び捨てにさせていただいています)と手登根直樹さん(てどこんなおきさん、バリトン歌手、通称テトちゃん。彼の大人気のブログはこちら→ http://naorso.ti-da.net/)がミラノに来ていたので、オランダ人のフローリスト Sander Havenaar(サンデル。フロムミランには既に登場したことがあります ミラノの休日 2007年4月27日 )とバルセロナ生まれカタルーニャ訛りのイタリア語を話す、でも家系はミラネーゼの Giorgio Barboni Navone(ジョルジョ。サンデルとジョルジョは以前住んでいたブラマンテ通りの隣人で今でも家族のように親しくしてもらっています)を招いて我が家で夕食を食べました。
これまでほとんど友人知人の名前などを出さず書いてきたのに突然4人もフルネームで登場しましたが、別に他意はなく、これからはこのフロムミランで吉川隆弘の交友関係が暴露されるというのも面白いかと思い、というのは嘘で、ほとんど友人しか読まないブログならせめて彼らも登場することで読みがいのあるものになるのではないか、とかいうのも嘘で、まあ、友人も登場して楽しいミラノ生活を書き綴るというイージーな感じも悪くないというところです。
サンデルが持って来てくれたフリウーリの白で妻の作ったリゾットを食べたあと、お肉にあわせてバローロを開けました。

Barolo La Serra 2004

Barolo La Serra 2004 Massimo Penna

先月スカラ座の首席クラリネット奏者のFabrizio Meloni(メローニ)の家に合わせに行ったときにもらったものです。彼は僕にとってはシャルリュス男爵のような存在で、一緒にいて楽しく、でもなんだか緊張感があって少しびくびくしてしまいます。彼には2歳の娘さんがおり、僕にも最近子供が生まれたので、その話で最近は打ち解けやすく、このワインもなんでもない機会になんとなくくれました。彼はワイン通なのでおいしいには違いないけれど2004年ということはまだ少し若いかなと思っていましたが、昨日は遠方より友来たるということで開けてしまいました。

以前取り上げたモンフォルティーノのバローロ(ワインを飲む!3 2008年4月9日)のような偉大なバローロはまだ分かりやすいと思いますが、普通のバローロは非常に難しいと思っていました。
 アマローネやブルネッロと違ってタンニンが強いことが多く、でもそのタンニンの多さも楽しむ、バリックも非常に強いけれどそれも楽しむ、となると年代もの、飲む2、3時間前には栓を抜き、デキャンティングをする必要がある、しなくておいしければいいのだけれど、したほうがおいしい。
バローロといえばワインの王様、学生のときにはじめて飲んだときには、ただ開けて飲んで、高いけどこれはおいしいのかな?おいしいワインというのはこういう味のことなのかな、半信半疑で飲み干したのを覚えています。

台本を一字一句暗記してラ・ベルマという女優(サラ・ベルナールがモデルであると言われる)を観に行った少年は期待していた感動を得られなかったけれど、後年、年老いた彼女を期待もなく見た彼は感動する。

Sarah Bernhardt (Alfons Mucha)

Sarah Bernhardt (Alfons Mucha)

僕もまた学生のときに1万円以上払って最前列でミケランジェリの最後の日本公演を観たけれど、よくわからなかった。その後彼の録音やヴィデオは何百回と見、もう一度生で聞いてみたいけれど、もういないからそれは無理ですね。

Arturo Benedetti Michelangeli

Arturo Benedetti Michelangeli

突然プルーストの話から、「僕もまた」ということになって、また少し自意識過剰気味である。昔はバローロはおいしいと思えなかったけれど、昨日のバローロはおいしかった。それが特においしいバローロであったことはもちろんだけれど、年を経て少しは味が分かるようになってきたのかな、というのが今日のお話でした。

食後にはヤスオとテトちゃんが持って来てくれたグラッパを飲みました。
バローロの後にまろやかだけれどすっきりとしたドルチェットのグラッパはよく合いました。

Grappa di Dolcetto Romana Carlo Dogliani

Grappa di Dolcetto Romana Carlo Dogliani

ピアノの弾き方など 4

Glenn Gould

Glenn Gould

「ピアノの弾き方など」という題で書き始めることしたのは、奏法について、どのように鍵盤を押すかという辺りのことについて書こうかな、という考えがあってのことであったのに、どうも迂闊な性が祟って、またもや「表現」とか、さらには「リズム」とか、最も重要な問題に引っ掛かってしまい、なかなか本題に入れず、苦労をしました(ここでいう最も重要な問題というのが他の問題との間でどのようにその重要さが計られるのか、というような問題には、もう、触れない)。

Alfred Cortot

Alfred Cortot

そもそも「弾き方」を知っていると思ったから「弾き方」を説明しようと思ったはずだったのだけれど、いざ「弾き方」について書き始めてみると、「弾き方」は実は単純な「弾き方」に収まらず、音楽の表現の問題、ということは「音楽」にとどまらず「自己」の表現でもあるから、趣味の洗練だけではなくて、人としてのあり方なんかも含まれてきそうで、ああ、まだまだ僕は「弾き方」を知らないし「弾き方」なんて書けない!という結果になりました(書けないハライセにこの1文の中で7回も「弾き方」と書いてみました)。

Arturo Benedetti Michelangeli

Arturo Benedetti Michelangeli

もう少しかけるテーマで書かないと自分も読むほうもつまらないですね。

Vladimir Horowitz