スカラ座で弾いて来ました。

ご報告が遅れましたが、3月10日から4月7日の間12公演、スカラ座のバレエ公演でキリアンの振付けの”Petite mort”の音楽、モーツァルトのピアノ協奏曲の21番と23番のゆっくりの楽章を弾きました。

初日のカーテンコール Photo: Marco Brescia Teatro alla Scala

モーツァルトの、というよりもクラシック音楽の中でも最も有名な曲ですが、バレエの音楽ですので、テンポは自由に決められるわけではなく、また、たとえばちょっとした装飾を付けたりするにしても、かなりきっちりとストイックにまとまったシャープな振付けで、むしろ音の少ない感じが踊りにはあっているようでもあり、いろいろと自分がソロで弾くのとは違った演奏をすることになり、様々な制約の中で納得のいく演奏のできるように努力しました。制約、と書きましたが、音楽からキリアンが感じ取って作り上げた振付けなわけで、僕はその振付けからインスピレーションを得て演奏に活かすことが出来れば素晴らしいなあ、とも考えて弾いていました。
ゆっくりの楽章だけの演奏ということで、特に楽器の調整には気を使いました。ファブリーニのスタインウェイのD588395で、同じ時期にスカラ座でアレクセイ・ボトヴィノフ(ゴールドベルク変奏曲)やチョ・ソンジン(ラフマニノフ3番)なども使ったので、日によって調整が変わり、スカラ座の調律師のサンドロと毎公演前に調整をするのが始まりでした。

開場前、舞台上で照明のチェックをしている下で調律しているサンドロさん

僕の細かい要求に根気よく対応してくれ、本当にピアノが好きなのだなあと、感謝するとともに感心しました。ミラノに来るたくさんの有名なピアニストたちの調律をしている人で(ポリーニの家のピアノの調律を常にしている人でもあります)、こぼれ話とともに、誰がどのような特殊な調整を要求するかなど、興味深い話もたくさん聞かせてもらいました。同じピアノで同じ会場でほぼ同じ調律師(2公演は僕の家の調律をしているガルディーノさんでした)で12回公演というのは滅多に出来ない貴重な経験で、非常にいい勉強になりました。
僕はたまにスカラ座のオーケストラのエキストラとしてオケの中でも弾きますし、特にそれぞれの楽器の首席奏者とは室内楽をしますので、このオーケストラはみんな知り合いといった感じで、楽しくもあるけれども、むしろそこでソロで弾くのは大きプレッシャーでもあるわけです。もちろん音色であったりフレージングやアーティキュレーションを聴いてくれて認めてくれる人もいるはずですが、これだけ少ない音の曲を弾くということは、一つでも音を間違えたらそれこそ誰にでも分るわけで、倒してはいけないと思っていると倒してしまうワイングラス、のような変な緊張感もあり、なかなかスリリングな時間を楽しみました。

GPはタキシードにネクタイで Photo: Marco Brescia Teatro alla Scala

オーケストラピットで演奏し終わったらすぐに舞台に上がって挨拶をしました。ダンサーたちはもともと礼をするのもとっても様になっている上に、舞台稽古から礼のチェックにも舞台監督から細かく指示があり仕上げられている中に、GPから突然舞台に放り出されたピアニストの図です(笑)。

初日のカーテンコール Photo: Marco Brescia Teatro alla Scala

初日のカーテンコール Photo: Marco Brescia Teatro alla Scala

日本での6月のコンサートのご案内

2018年06月16日(土) 西宮市プレラホール 13:30開場 14:00開演
2018年06月23日(土) 赤坂区民センター 区民ホール  15:30開場 16:00開演

【演奏曲目】
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 Op.27-2 『月光』
フランツ・リスト作曲
巡礼の年第2年「イタリア」より 第7曲 ダンテを読んで : ソナタ風幻想曲
巡礼の年第3年より 第4曲 エステ荘の噴水
モーリス・ラヴェル作曲
夜のガスパール

詳細はホームページのコンサートページをご覧下さい。

スカラ座出演!

ミラノ・スカラ座出演決定!

2018年3月10日〜4月7日(12公演) ミラノ、イタリア
バレエ公演「Mahler 10 / Petite Mort / Boléro」の “Petite mort”(振付け:Jiří Kylián イリ・キリアン)で、オーケストラ・ピットでモーツアルトの21番と23番のピアノ協奏曲の緩徐楽章を演奏します(デヴィッド・コールマン指揮 ミラノスカラ座管弦楽団)。

これは2006年にスカラ座のバレエで初めて演奏した演目の再演です。この Petite mort というのは、日本語では小さな死ということですが、ザルツブルグ音楽祭が1991年モーツァルトの没後200年を記念してキリアンに委嘱した作品です。モーツァルトの没後200年だから「小さな死」ですが、この作品は、”the sensation of orgasm as likened to death” というような言葉とも関連があると思います。始めて観た時はとっても感動しました。私の弾くモーツァルトの前にマーラーの交響曲第10番の第1楽章のアズール・バートン Aszure Bartok による新演出があり、彼女は現在最も注目されている振り付け師の一人ということです。プログラムの最後を飾るのはベジャール振付けのラヴェルのボレロ。スカラ座のエトワール、ロベルト・ボッレが5公演踊ることが既に決まっていますが、もう一人は、女性が踊る可能性があるという話をどこかで聞いたような気がします。興味深いですね。
わざわざミラノまで観に来る価値のある公演だと思います。ご検討ください。

スカラ座ホームページ:
英語 http://www.teatroallascala.org/en/season/2017-2018/ballet/mahler10-petitemort-bolero.html
イタリア語 http://www.teatroallascala.org/it/stagione/2017-2018/balletto/mahler10-petitemort-bolero.html
詳しくはコンサートページをご覧下さい。

曲全体をまるで一目で見渡すかように聴くこと、または音楽と絵

ミケランジェリがチェリビダッケとのコンチェルトのアンコールでドビュッシーの「ラモー讚」(映像第1巻の2曲目)を弾いているビデオです。

チェリビダッケはミケランジェリについて「彼は彼を愛し理解する人、彼に対して批判的な立場でない人を切に必要としている。私のことを理想的な人物だと思っているらしく、実際に彼にはそういう感情を持っているし、彼の計り知れない孤独を私は恐れている。」とイタリアの全国紙コリエーレのインタビューで話しました。(5 ottobre 1992 – Corriere della Sera

他のインタビューでは「彼(ミケランジェリ)はクライマックスと曲のはじめと終わりに関連を持たせることが出来る唯一の人だ。」とも言っています。以前Youtubeにもありましたが見付からず、このリンクはFacebookのアカウントがないと見られないかもしれません。 http://www.facebook.com/video/video.php?v=1301124047123

この言葉は僕には非常に興味があって、モーツァルトの有名な手紙の言葉を思い出させます。

「ちょうど美しい一幅の絵或は麗しい人でも見る様に心のうちで一目でそれを見渡します。後になれば、むろん次々に順を追って現れるものですが、想像の中ではそういう具合には現れず、まるですべてのものが皆一緒になって聞こえるのです。」

ちなみに、この手紙は小林秀雄も「モオツァルト」に引用していますが、彼はこの前後のところにより惹かれたようで、特にこの部分には言及がありません(苦笑)。

「クライマックスと曲のはじめと終わりに関連を持たせる」には「一目でそれを見渡し」「皆一緒になって聞こえる」のでないといけないのではないかという気がします。

以前ツイッターで「音楽では細部と全体との関係は、絵画彫刻とは全く異なる。楽曲の全体的な印象というのは、記憶力に関わる問題でもある。鑑賞において、鳥瞰図のようなものはなく、あくまでも木々の間を歩くことから森を把握するしかない。」とつぶやいたことがあり、その時にこのような感想?をいただきました。

我々の視線は、ある時は、描かれたある事物ともう一つの事物との対応関係を見ていたり、またある時は画面のなかをリズミカルに動きまわる筆致の動きを追っていたり、ある時は白から緑、緑から黄色、黄色から赤へと微妙なニュアンスで変化してゆく色彩の震動を感じていたりするというような、視線の『動き』として、部分と部分、要素と要素を動きながら繋いでゆく、見るという行為の『持続』によって、この絵を捉えてゆくしかないのだ。」(「音楽と他の芸術の相違をめぐって」

絵もまた音楽のように「動き」の「持続」として捉えるという全くもっともな指摘に恐れ入ったのですが、先のモーツァルトの言葉はその反対に、音楽もまた絵のように「全体を俯瞰(ふかん)する」ことができるということを言っており、そして、そういう視点を持って初めて「クライマックスと曲のはじめと終わりに関連を持たせる」ことが出来るのではないかな、と思いました。

で、まだ何か言い足りない気もするのですが、この話はこれ以上掘り下げると永遠と瞬間の話とか始まって恥ずかしいことになるか、または、ある曲を最初から最後まで歌わなくてもその曲から受けた印象を思い出すことが出来るように実は音楽は誰にでも一瞬のものとして捉えられているじゃん、という陳腐なことになるので終わりです。

再び前ポストと同じコンサートのお知らせです。
11月10日に兵庫県西宮芸術文化センター神戸女学院小ホールにてリサイタルをします。
日 時 2011年11月10日(木)
開 演 19:00  (開 場 18:30)
会 場 芸術文化センター 神戸女学院小ホール
料 金 自由席(一般)3,500円/(吉川隆弘後援会会員)3,000円
お問い合わせ:Ampio(吉川隆弘後援会)TEL 0798-73-3295
program:
ベートーヴェン:ピアノソナタ第7番ニ長調 Op.10-3
プロコフィエフ:ピアノソナタ第6番イ長調 Op.82
ドビュッシー:映像第2集
ショパン:ノクターン第1番変ロ短調 Op.9-1、マズルカ第41番嬰ハ短調 Op.63-3、スケルツォ第2番変ロ短調 Op.31

歌を聴く時に言葉を聞くことと音楽を聴く時に音を聞くこと

また長いこと更新しないでいる間、いろいろと書けることはあったし、ああ、ここでカメラを持っていれば、或は、なんであのとき写真を撮っておかなかったのだろう、というような後悔を何度も繰り返しまして、結局だらだら書きます。

先日ツイッターでイタリア語の発音について質問をいただきました。イタリア語はイタリアに住んでいるので何とか話せますが、特に発音について(だけでなく全般的に)真剣に勉強をしたことはなく、知っている範囲でごく曖昧にお答えさせていただきました。質問は “slentando” は「ズレンタンド」という発音になるのか、というものでしたが、単純に答えるとそうなります、ですが、考えてみると実は複雑でした。そもそも「ズ」には母音はないのでまずカタカナで表記するのが無理ですね。そして日本語の「ズ」の子音の発音はイタリア語では “Z” になりますが、「ズレンタンド」の「ズ」は “S” の濁ったもので、僕の曖昧な知識を恥ずかし気もなく披露しますと(汗)、、舌の先が下の歯茎に触れた状態で舌の真ん中辺りが上あごに触れるような感じで出る音が “S” で、”Z” は舌の先が上だか下だかの歯茎から離れる時に出る音のようです(汗)。濁った “S” は「さ、せ、そ」の発音の時の舌の状態に非常に近く、”Z” は「ツァ、ツェ、ツォ」の発音の時の舌の状態に非常に近いのではないか、と思います(汗)。例えば、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」でツェルリーナ(伊語ではゼルリーナです)が歌うアリア “Batti, batti, o bel Masetto”(バッティ、バッティ、オ ベル マゼット) のマゼットは “Z” で発音されるとなんだか可笑しい、でもそんなことは普通のオペラ好きの日本人の方にはわからないことなのだと思います。歌を聴く時に言葉を聞くこと、がどの程度鑑賞の上で重要なのか、よく分らなくなってしまいました。歌は全般的にごく当たり前な生活がもとにあるものが多く、そこで生活感の全く違う国の人にその生活感のところを分ってもらうのは難しいと思います。「歌」がそうであれば「歌」を書いた作曲家のピアノ曲もまた生活感が漂ってくるのかもしれません。生活、のような下世話なものから切り離されたところに「純粋」な「芸術」の「価値」があるのかもしれません。これは壮大な問題なので本当に気が向いた時にゆっくり考えます。

先日野外でベートーヴェンの悲愴ソナタを弾いた時のこと、弾き始めてすぐ、近所の教会の鐘が鳴り響いてしまいました。が実はそれは僕には聞こえなかった。コンサート後お客さんに「鐘が鳴ったのが残念だった」と言われて初めて鐘が鳴っていたことを知りました。それはつまり弾いている時に「音」を聴いていなかったということになると思えます。ピアノを弾く時、弾く前に既に次に出る音のイメージというものがあり、音楽をするということは指揮者のように「音」に先立って進んで行く必要があります。同時にどのような音が出ているか、というのもまた聴こえていないといけないと思っていましたが、そのあたりはちょっと微妙になって来ました。音楽を聴く時に音を聴くという当たり前のことについて考えさせられてしまいました。

例えば歌を歌う時、歌っている人は自分では自分の声は聞こえないというのは、自分のしゃべっている声が知らない間に何かの拍子で録音されて、それを聞かされた時の違和感を思い出しても容易に想像できます。ピアノの音は弾いている人にも聞こえますから(厳密に言うと客席やマイクの向こうでどう聞こえているかは分りませんが)練習の時には特に非常に集中して聴くことが大切だと思います。

ある音を集中して聞いていると他の音は聞こえないということもあるのでしょうか?

何となく感じたことを書きました。ただ感じたことを何となく書くだけでなく、ここいらでひとつ、先人の文献を引用したり、何かしら科学的な(或は哲学的美学的宗教的道徳的な)論証を取り上げたりすることで、ある種の解決というのか、見解にまで辿り着けるようになると、このブログもまた、少しは読んで面白いものになるのかもしれないな、とも思いますが、また中途半端に終わりです。次こそはここのバールのカフェが旨い!という具合にいきたいのですが、そうでなかったら、過去の中途半端に思い付きで書いた話を掘り下げてもいいのかもしれませんね。