経済とワイン

経済、今危機に瀕している経済というのは、資本主義の社会の中でのことで、その社会は民主主義でもあって、ということは要するに政治のシステムの上に成り立っていると思う。イデオロギー(日本語あってますか?イデオロジーでしょうか?)は、僕の思うに道徳と哲学に基づかざるを得ない。決定権を持つ人には、個人の幸せとは何か、生きる意味とは何か、世界の意味とは何か、個人の価値とは何か、そのあたりの問題にはっきり答えてもらいたい。(決定権を持つ人というのは自分を含めた選挙権を持っている人という意味です。)

「社会的な地位を持って初めて政治的な態度を決めることが出来る。」というような言葉を聞いたことがあるけれど、そんななまやさしい、中途半端な問題ではない。この言葉は、「人は自分に都合のいいものを選ぶ」というのと大差がない。そうではない、と思いたい。むむむ、ムツカシイなあ・・・。

ともかく、経済を公の場で語る人が、「政治はちょっと勘弁してください」、道徳は「あまり経済とは関係がないようですが・・・」、宗教は「石油の話ですか?」、哲学はテンプンカンプンというようなことでは、破綻したって不思議はないわけだ。

ちょうど、ボルドーのワインの、あれがおいしい、これはいまいち、と1本何万円もするようなワインの寸評をする人が、ヴェルレーヌもボードレールもフォレもドビュッシーもマティスもセザンヌも全く知らなかったとしたら、ちょっと変なのと似ている。

今夜はボルドーの安い赤ワインを飲んでちょっと酔っぱらってしまったのである。

味見をする前にラべルは見ない

味見をする前にラべルは見ない

おいしくっても一気飲みは避ける

おいしくっても一気飲みは避ける

思いをハセタリする振りをする

思いをハセタリする振りをする

ラベルを凝視

ラベルを凝視

ちょっとほろ酔い

ちょっとほろ酔い



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むむむ

やっぱり難しくなってきたのである。
日常生活の中にたくさんの問題や悩みを抱えつつ、そ知らぬ顔をして颯爽とステージに登場してピアノを弾くのが精一杯、その上日頃思うことや生活のひとコマなんかを書くのは簡単ではないのである。
コンサートページの報告(詳細)も実は難しいもので、コンサートの前は不安でいっぱい、コンサートのあとは反省の山積みで、書くことでその不安は現実にもなりかねないし、うまく弾けなかった反省を書いてしまうと「この程度の実力です」として記録されてしまうようで、結局なるべくシンプルな当たり障りのない感想に終始してしまうのです。

「演奏」もまた「芸術」のはしくれなので、そこではやっぱり何かが「表現」される(表現しない芸術もあるかもしれませんが)わけで、私は出来るだけ表現の豊かな演奏をしたいと心がけているのだけれど、そこで「表現」されるのは、「感情」「心情」「思想」などではなくて、むしろ「生活」といいますか、「人」そのものが垣間見られざるを得ないような気がしてきていて、ということは、このテイタラク、こんなだらしのない生活をしているようではろくな演奏にはならないのです。

でも芸術は道徳や宗教ではないので、あるいは、だめな自分を受け入れて(どこかで書いたかな?)そんなだめさが演奏の中に如実に現れれば、それはそれで面白いのかもしれない。日常生活の中での笑いと涙をピアノを通して大真面目に披露する、というのは随分滑稽な図だけれど、滑稽なだけに見て聞いて面白くないこともないのではないか。とかやっぱりまだまだ甘いな。

「書く」のが難しいのは、要するに、すこし種明かしをしてしまうような気がするからなのかもしれない。舞台上ではなにやら真剣そのもの、真摯でストイックな姿勢を取り繕って、もし「表現」なんかも出来たところで、蓋を開けてみれば「なーんだ、こんな奴なのか」などと思われたくはないというところでしょうか。

「表現する」というのは単純なことではない。

美しいメロディーを、美しい音色で、美しいフレージングと美しいアーティキュレイションで表現しようとすることは、結果的には何を美しいとするか、美しいとは何か、を表現しようとすることに他ならない。あるメロディーの美しさそのものは、その構造をいくら分析しても解明できない。音楽に意味と価値を与えるのはただ演奏のみである。まあ、簡単に言えば、「ファーミ」という2つの音が美しいかどうかは演奏次第だということです。あんまりうまく説明できていませんね。

例えば、グールドのゴールドベルクのアリアの演奏の素晴らしさは、リズムとフレージング、アーティキュレイション、音色の完璧な均衡にあるというような批評は、それは結果論に過ぎない(往々にして批評というのはそういうものであるが)し、ならその均衡とやらを研究すれば私にも弾けるのでしょうかというと、そういうものではない。表現すること自体が問題なので、表現された結果を似せても始まらないのである。いつの時代も詩人達は詩のために生涯を捧げてきたのではなかったか。「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」と歌った時、ヴェルレーヌはかなりつらい状況にあったのだろうし、太宰が「葉」の冒頭でこの1節を取り上げたということは、彼は苦しい中「叡智」を読んでいたのである。僕らピアニストだってまかりなりにも芸術家、「美」のためには魂を悪魔にでも(もちろん神様にも)売る覚悟があるのであるのである。(心意気を漏らしただけで、犯罪を犯すとかいうことではありません。ちなみに最近私はサルトルの「嘔吐」を久しぶりに読み返しています。)

書くことの難しさをだらだらと書き綴っていたかと思いきや、どうも話に力が入ってきて素人丸出しの芸術論、「なあんだ、やっぱりこの程度の奴なのか」と思わせておいて、でも、そんなダメな自分を否定するどころか受け入れて、なかなか私も多忙なのであるのである。